敏腕教育係は引きこもり御曹司を救えるか?
「11時にアポを取ってる人材育成部の阿久津です。時間ギリギリの到着になってしまい申し訳ありません」
「阿久津さんですね。社長がお部屋でお待ちです。こちらへどうぞ」

47階に着くと、エレベーター前ですでに秘書が待ち構えていた。確かに、いかにも社長秘書というような華やかさとキビキビとした雰囲気がある人だ。頭のてっぺんから爪先まで手入れが行き届いている。山下課長が「阿久津さんは秘書って感じじゃない」と言うのも納得。

ものものしい警備員付きのゲートを通り向け、ガラス張りの大きなフロアに案内される。さすがは社長のスペース、部署が三つ分くらい余裕で入るのではないかという広さだ。そこに、今阿久津を案内している秘書の他に、5人の秘書らしき人が忙しそうに書類の整理などしていた。

「奥のお部屋に社長がいらっしゃいます。ノックをしてから入って大丈夫です」

ここからは阿久津1人で行く。急に就活の面接を受けに行くような気分になってくる。だが、目上の人へのマナーや言葉遣いなどは普段から教育係として後輩に教えているものだ。それに関しては自信が無いわけではない。

「失礼いたします」

中の人物に聞こえるよう、気持ち大きめに扉をノックして声をかけた。

「どうぞ」

低めの中年男性の声が聞こえる。

阿久津はドアを開けた。

初めて入る社長室は案外雑然としていた。壁一面の本棚にずらりと並ぶビジネス書や学術書の類。日本語だけでなく英語、ドイツ語やフランス語らしき言語の本まで。さらに机や椅子に積み上げられた書類や何かの数式やグラフが雑多に書いてあるメモ書きが散らばっている。社長の部屋というよりは、大学教授の研究室のようだった。

社長はその本の山に埋もれるようにして座っていた。

「阿久津さんだね? 急な呼び出しですまない。改めて自己紹介しよう。社長の佐伯です」
「人材育成部の阿久津です。よろしくお願いいたします」

阿久津が会釈すると社長はにこりと笑い、本の山の中から立ち上がった。座っていた時はそれほど大柄と思わなかったのに、起立すると社長はかなりの長身であることに阿久津は驚いた。髪をピシッと撫で付けて、額や眉間には皺が刻まれているものの、それすらダンディに見せるオーラを放っている。

47階には社長の愛人が住んでいる。

星のあの言葉はあながち嘘ではないかもしれない。そう思うほどに社長からはギラギラとした現役感が伺えた。

「どうぞ、そちらのソファへかけて話そう」
「失礼します」

阿久津は緊張でぎこちなくなりながらもソファへ腰掛ける。社長はテーブルを隔てた正面にゆったりと座った。

「君のところの山下課長から少し話は聞いていると思うが、実は君に頼みたいことがある」
「はい」

実は阿久津はここに来るまで、社長からどんなことを頼まれるのか勝手に想像を巡らせていた。候補は以下の4つ。
1.社長の秘書候補
 部長も言うように、阿久津は他の秘書たちと似ても似つかないからおそらく不正解。
2.社長の愛人候補
 噂通りの色好みの社長であればもしかして、と身の危険を感じたが、社長の雰囲気から察するに彼のタイプはエルメスやシャネルを何なく着こなす女。よって不正解。まず阿久津には社長どころかここ数年どんな男も寄ってこない。
3.社長の愛人のお世話係
 割と正解に近そうな候補と見ている。阿久津が社長の愛人はあり得ないので、世話係ならあり得るかと考えた。しかし、教育係としての定評はあるが果たして阿久津は愛人のお世話は出来るのだろうか。朝から高級な朝食を要求されたりしそうだ。
4.社長のペットのお世話係
 選択肢の3から派生して、お世話係繋がりで考えてみた。もしこれでお金が貰えるなら、正直大歓迎だ。ただし、犬、猫、ハムスター、鳥くらいに限る。ヘビやワニやタランチュラなどの特殊なペットの面倒を見るのは正直不安だ。

色々と想像を巡らせたところで全く予想がつかないので、とにかく社長の話を聞くことにした。

「依頼の内容を言う前に、一つ君に聞きたいことがある」
「はい」
「君の教育係としての評判は私も聞いている。反抗的な社員がトゲが落ちたように穏やかになったり、ミスばかりの新人が1人立ちできるようになったりといった話を聞いた」
「いやあそれは、彼らの頑張りが大きいと思いますが」

みんなこう謙遜するだろうなという定番の文句を言った。でも実際そうなのだ。変わったのはあくまで本人の力で、阿久津が全部変えたわけではない。

「それでは、君が教育係として大切にしていることを一つだけ挙げるとしたら、何だろうか」

やはり就活の面接スタイルじゃないか。答えを間違えたらクビになるんじゃないだろうな。ややビビりながらも、不思議と阿久津の頭にはすぐに答えが浮かんできた。

「先輩である自分がいつもご機嫌でいることが一番大事なんじゃないでしょうか」

これは阿久津がいつも意識していることだ。

「ほう、何故だい?」
「新人が困った時、助けてほしい時に先輩が忙しそう、またはイライラしていたらどう思うでしょうか。この人には頼れない、怖いって思って何も聞けなくなるんです。それって一番最悪なことですよね。だから私は、どんなに忙しくてもなるべく暇そうに、イライラした様子を見せないでいるつもりです。教えるテクニックなどは二の次で、それが一番大切と思います」

社長が求めている答えが何なのかは知らないが、阿久津は本音を答えた。これで業務を依頼されなければ仕方がないというものだ。

社長は黙って数秒考えていたが、やがて深く頷いた。

「阿久津沙耶さん。君に是非、この業務を任せたい」

阿久津は社長に自分の仕事を認めてもらった気がして、つい笑みをこぼした。

「ありがとうございます」

さて、一体どんな業務を任されるのだろうか。すると、社長は唐突に語り出した。

「私は3人の子どもに恵まれていてね。長男はハーバードの大学院を出て、『親父の力はいらない』と自分でSaaSの会社を起業している。長女は今、病気の子どもたちの命を救いたいと希望して研修医の身だ」
「はあ〜、それは。凄いですね」

何故いきなり子供の話をされたのか分からなかったが、あまりのエリート一家ぶりに阿久津は思わず感嘆のため息を漏らした。やはり社長の遺伝子と教育費もあってか、凄い経歴。違う世界の話過ぎて、嫉妬心も湧かない。

「最後に、次男の学《まなぶ》だが……彼は今、このビルの47階で働かずに引きこもりをやっている」
「ええっ、あの47階に⁈」

社長の息子が引きこもりという事実と、社長の愛人がいるという噂があった例の47階にまさかの息子が住んでいるという衝撃に阿久津は思わず声を上げた。

「学の引きこもり歴は、高校一年生の頃からだから、引きこもってから大体もう10年になる」

それはそれは、結構な引きこもり歴ではないか。阿久津が噂に疎いのかもしれないが、初めて知る事実だった。

「君はさっき、教育役というのは機嫌良くしていることが大事と言った。学が引きこもりになった時……私たちは彼にそうすることは出来なかった。だんだん難しくなる勉強についていけなくなる彼の悩みを聞いてやれないまま、ひたすら叱って、家庭教師や塾、通信教育など、ありとあらゆる手段で机に向かわせた……その結果が、今だ」
「なるほど」

ニュースなどでたまに見る、教育熱心すぎる親については、富山のごく普通の家庭で育った阿久津にも思うところはある。だが、社長も後悔している様子だったし今は何も言うまい。

何より、話が見えないのだ。社長は一社員である阿久津にどうしてここまでプライベートな話をするのか。それがこれからの業務の話とどう関係しているというのだろう、と考えたところで、阿久津はある恐ろしいことに気づいてしまった。

「あの、もしかして私に依頼する業務とは、その息子さんをどうにかする、ということですか」
「話が早くて助かるよ」
「ええっ」

否定してほしいという気持ちで尋ねたのだが、社長に真面目な顔のまま頷かれてしまった。

「君には、私の息子である学の社会復帰のお手伝いをお願いしたいのだ」
「左様、ですか」

阿久津は予想外の依頼内容に呆然とした。
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