敏腕教育係は引きこもり御曹司を救えるか?
阿久津は左腕の安腕時計を見る。
10時53分。社長との約束の面談時刻が迫っているのに、さっきからエレベーターが混みすぎていて乗れない。
焦っていても仕方ないか。とりあえず手元のスマホを開き、社長のプロフィールを予習する。さすが我が社の社長ともなると、出生から現在までの詳細な来歴がWikipediaに載っている。
当たり前のように東大出身か。さすがエリート。でも意外と普通のサラリーマン家庭出身らしい。大学卒業後は三友商事の社長に就任し、汚職など過去の負の遺産を会社から一掃し、クリーンなイメージを……要するに、好景気の売り手市場の時にギリギリ三友商事の採用に引っかかった阿久津とは住む世界が違う人だ。
確か、50代くらいのダンディなおじさまって感じだったような。
はるか昔の入社式での姿を思い浮かべる。風格はさすが会社のトップと言うべき堂々たるオーラが出ていたが、ちょっと神経質そうな、怒らせると怖そうだななんて思った記憶がある。
「あれ、敏腕教育係じゃん。何してんの?」
永遠とも思えたエレベーター待ちで、突然声をかけられた。その声の主が分かった途端、阿久津の体は強張った。
「ああ、星《ほし》さん、お久しぶりです」
「ホント俺がエネルギー部門行ってから会わなくなったねー。阿久津、元気してた?」
「はい、まあそれなりに」
白い歯を見せて屈託なく見せるその笑顔を見て、変わっていないなと思う。
それよりエレベーターが、と阿久津が目の前を手で示すと、また人で満杯になったエレベーターの扉が開く。
「あー、この時間ヤバいんだよね。ほら時差出勤のやつらいるでしょ?」
「なるほど……11時からの約束なんですが、この分だと遅れるちゃうな」
「何それヤバいじゃん。こんなエレベーター混む時間に上の階でアポ取るヤツがおかしいけどな。それって会議? 打ち合わせ?」
「うーん、ちょっと私も詳細をよく分からないまま呼ばれて」
「へえ、何階?」
「ええと、確か47階ですよね? 社長室」
「社長室! 社長室に行くの、阿久津1人で?」
俺も数回しか行ったことない、と星は驚きの声を上げる。
「まさか、何かやらかしたの? 新人の見本である阿久津ともあろう人が」
おどけて言う星に、確信が持てないまま阿久津は答える。
「違うと願いたいですけどね」
課長の話が本当だとすれば、自分の教育係としての資質を見込んでの何らかの依頼だと思われる。だが、これは社長案件である。社内でも顔の広い星に知られるのはコンプライアンス的に特に良くない。余計なことは言わないに限る。
「ふうーん、なるほどね。とりあえずすげえじゃん。うちの会社の規模で社長に認識されるってだけで一握りなんだから」
「そうですかねえ」
業務内容が分からない限りは、阿久津もいくら社長案件とはいえ誇りに思いようが無かった。
「ともかく、それは遅れたらヤバいよ! こっち来な」
星は持ち前の距離の近さで、阿久津の手首のあたりを掴んで引っ張った。
「あ、ちょっと星さん!」
「阿久津はさ、もっと強引さとか、思い切りの良さがあればさらに輝くよ」
「どういうことですか?」
「ほら、あのエレベーターのわずかな隙間。行くぞ。俺も一緒に上行くから」
「行くぞ、ってあんな狭いところに我々2人入れるんですか⁈」
「何としてでも間に合いたいなら怯んじゃダメだ。チャンスをものにしないと」
中にいた人にちょっと迷惑そうな顔をされながらも、星と阿久津はエレベーターのわずかな隙間に入る。幸い、星は細身で阿久津も小柄だからか重量オーバーの警告音は鳴らなかった。
「ほら、大丈夫だったろ?」
ぎゅうぎゅうのエレベーターの中、得意げな星の笑顔が阿久津の目の前にあった。阿久津は視線を意識的に逸らしながら小声で答える。
「確かに、今回のエレベーターに乗っていなければおそらく間に合いませんでした……」
「そう。阿久津は色んな人のことを考えすぎなんだよ。エレベーターの人が迷惑なんじゃないかとか、そんなことだろ。でも時には自分のわがままを通さないといけないこともある」
自分のわがままを通す、か。阿久津は星の言葉を、過去の体験と共に噛み締めた。星が阿久津の教育係だった頃のこと。
が、すぐに現実に戻される。
「そういえば社長室は47階じゃなくて48階な。47階はこのエレベーターでは止まらんよ。ボタン押しとく」
「そうでしたか! 危ないところだった。ありがとうございます」
「まあ滅多に行かないからみんな忘れてるよね」
ちなみに、と星は皆に聞こえないようにか阿久津の耳元で囁く。
「一個下の47階はワンフロア全部誰かの住まいと言われてる。……社長が愛人を囲ってるって噂も」
「ええっ」
星の距離の近さと話の内容に驚き、阿久津は一瞬たじろいだ。しかし、周りに人がいる手前、すぐさま大人な対応に切り替える。
「んなわけないじゃないですか」
ハーレクイン小説じゃあるまいし、と付け加えようとしたが、星がハーレクインというものを知っているか自信がなかったので黙っておいた。
「あと、距離が近すぎます星さん」
「おお失礼。……前は許してくれたのにねー」
そうこうしているうちに、星の目当ての階に着いた。このフロアは多くの部署が混在しており、阿久津以外の全員がエレベーターを降りるようだ。
「んじゃ、社長とのご対面、頑張って!」
手を挙げて、颯爽とエレベーターを降りる星の薬指には指輪が光っていた。
その輝きを素直に綺麗と思えないのは、まだ阿久津が未熟者だからだろうか。
心が少し乱されて落ち着かない阿久津を1人乗せ、エレベーターは48階へと上がっていく。
10時53分。社長との約束の面談時刻が迫っているのに、さっきからエレベーターが混みすぎていて乗れない。
焦っていても仕方ないか。とりあえず手元のスマホを開き、社長のプロフィールを予習する。さすが我が社の社長ともなると、出生から現在までの詳細な来歴がWikipediaに載っている。
当たり前のように東大出身か。さすがエリート。でも意外と普通のサラリーマン家庭出身らしい。大学卒業後は三友商事の社長に就任し、汚職など過去の負の遺産を会社から一掃し、クリーンなイメージを……要するに、好景気の売り手市場の時にギリギリ三友商事の採用に引っかかった阿久津とは住む世界が違う人だ。
確か、50代くらいのダンディなおじさまって感じだったような。
はるか昔の入社式での姿を思い浮かべる。風格はさすが会社のトップと言うべき堂々たるオーラが出ていたが、ちょっと神経質そうな、怒らせると怖そうだななんて思った記憶がある。
「あれ、敏腕教育係じゃん。何してんの?」
永遠とも思えたエレベーター待ちで、突然声をかけられた。その声の主が分かった途端、阿久津の体は強張った。
「ああ、星《ほし》さん、お久しぶりです」
「ホント俺がエネルギー部門行ってから会わなくなったねー。阿久津、元気してた?」
「はい、まあそれなりに」
白い歯を見せて屈託なく見せるその笑顔を見て、変わっていないなと思う。
それよりエレベーターが、と阿久津が目の前を手で示すと、また人で満杯になったエレベーターの扉が開く。
「あー、この時間ヤバいんだよね。ほら時差出勤のやつらいるでしょ?」
「なるほど……11時からの約束なんですが、この分だと遅れるちゃうな」
「何それヤバいじゃん。こんなエレベーター混む時間に上の階でアポ取るヤツがおかしいけどな。それって会議? 打ち合わせ?」
「うーん、ちょっと私も詳細をよく分からないまま呼ばれて」
「へえ、何階?」
「ええと、確か47階ですよね? 社長室」
「社長室! 社長室に行くの、阿久津1人で?」
俺も数回しか行ったことない、と星は驚きの声を上げる。
「まさか、何かやらかしたの? 新人の見本である阿久津ともあろう人が」
おどけて言う星に、確信が持てないまま阿久津は答える。
「違うと願いたいですけどね」
課長の話が本当だとすれば、自分の教育係としての資質を見込んでの何らかの依頼だと思われる。だが、これは社長案件である。社内でも顔の広い星に知られるのはコンプライアンス的に特に良くない。余計なことは言わないに限る。
「ふうーん、なるほどね。とりあえずすげえじゃん。うちの会社の規模で社長に認識されるってだけで一握りなんだから」
「そうですかねえ」
業務内容が分からない限りは、阿久津もいくら社長案件とはいえ誇りに思いようが無かった。
「ともかく、それは遅れたらヤバいよ! こっち来な」
星は持ち前の距離の近さで、阿久津の手首のあたりを掴んで引っ張った。
「あ、ちょっと星さん!」
「阿久津はさ、もっと強引さとか、思い切りの良さがあればさらに輝くよ」
「どういうことですか?」
「ほら、あのエレベーターのわずかな隙間。行くぞ。俺も一緒に上行くから」
「行くぞ、ってあんな狭いところに我々2人入れるんですか⁈」
「何としてでも間に合いたいなら怯んじゃダメだ。チャンスをものにしないと」
中にいた人にちょっと迷惑そうな顔をされながらも、星と阿久津はエレベーターのわずかな隙間に入る。幸い、星は細身で阿久津も小柄だからか重量オーバーの警告音は鳴らなかった。
「ほら、大丈夫だったろ?」
ぎゅうぎゅうのエレベーターの中、得意げな星の笑顔が阿久津の目の前にあった。阿久津は視線を意識的に逸らしながら小声で答える。
「確かに、今回のエレベーターに乗っていなければおそらく間に合いませんでした……」
「そう。阿久津は色んな人のことを考えすぎなんだよ。エレベーターの人が迷惑なんじゃないかとか、そんなことだろ。でも時には自分のわがままを通さないといけないこともある」
自分のわがままを通す、か。阿久津は星の言葉を、過去の体験と共に噛み締めた。星が阿久津の教育係だった頃のこと。
が、すぐに現実に戻される。
「そういえば社長室は47階じゃなくて48階な。47階はこのエレベーターでは止まらんよ。ボタン押しとく」
「そうでしたか! 危ないところだった。ありがとうございます」
「まあ滅多に行かないからみんな忘れてるよね」
ちなみに、と星は皆に聞こえないようにか阿久津の耳元で囁く。
「一個下の47階はワンフロア全部誰かの住まいと言われてる。……社長が愛人を囲ってるって噂も」
「ええっ」
星の距離の近さと話の内容に驚き、阿久津は一瞬たじろいだ。しかし、周りに人がいる手前、すぐさま大人な対応に切り替える。
「んなわけないじゃないですか」
ハーレクイン小説じゃあるまいし、と付け加えようとしたが、星がハーレクインというものを知っているか自信がなかったので黙っておいた。
「あと、距離が近すぎます星さん」
「おお失礼。……前は許してくれたのにねー」
そうこうしているうちに、星の目当ての階に着いた。このフロアは多くの部署が混在しており、阿久津以外の全員がエレベーターを降りるようだ。
「んじゃ、社長とのご対面、頑張って!」
手を挙げて、颯爽とエレベーターを降りる星の薬指には指輪が光っていた。
その輝きを素直に綺麗と思えないのは、まだ阿久津が未熟者だからだろうか。
心が少し乱されて落ち着かない阿久津を1人乗せ、エレベーターは48階へと上がっていく。