ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?

「こちらです、姫様」

「GMでしょう? ジぃエム」

恭しく差し出されたメニューを手に、多恵は辺りをはばかるように小声で窘めた。

三十半ばの女性に真顔で〝姫様〞はない。
しかし、伊佐山はポラリスの前身・ホテル幸村からの職人で、多恵が〝幸村の姫様〞と呼ばれていた頃からの誼だと言うから、何度注意されてもつい出てしまうのだろう。

いや、実は改める気などさらさらないのではないかと、純平は疑っている。
伊佐山にとって多恵は、この世でもっとも尊い人のようだから。

だから、もしも母がどこぞで仕入れてきた噂が事実で、ポラリスが身売りするようなことになったら、伊佐山は包丁を置いてしまうのではないかと、純平にはそれが恐ろしい。



一通り食材や調理法の説明を受けて、多恵はよろしいと満足げに頷いた。

フェルカドは社長でさえアンタッチャブル。
そんな絶対王者の伊佐山が、多恵の前では傅く従者のごとく。新メニューの開発から提供方法まで、きめ細やかで斬新な彼女のアイディアを奉じている。

「白瀬様のご主人は高血圧のお薬を飲まれてましたから、塩分は控えめに。ミセスローズウッドは朝食で山菜を残されていましたね? 苦手かもしれません。永野様には、いつものようにカロリーカットを。他のお客様に気づかれないよう、配慮をお願いします」

「承知しました、姫様」

「だからぁ──。まっ、いいや。──そうだ、純平君、ハルさんのこと、山岡さん何か言ってました?」

「湊人君によると、ただの食べ過ぎだそうです」

「そう、よかった」

ホッとした口調の理由は、むろんハルの体を気づかってのことだろうけど、それ以上に深刻な背景があるのだと、純平も他のスタッフも知っていた。
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