彼に抱かれ愛を弾く 〜ベリが丘恋物語〜
3曲を弾き終え、静かに指を下ろす。

「どうでしょうか?」

問いかけながら、やや斜め後ろに控えていた高椿さんの方を振り返った。

あれ?返事がない。
もしかして、意に沿わない演奏だったのだろうか。
自分なりに気持ちを込めて弾いたんだけど……

「あ、あのぅ……」 

高椿さんの顔を覗き込むように見やると、目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「高、椿さん?」

彼女はハッとしたように、私の顔に視線を向けた。そして傍に寄り私の目を見据えた。

「私の想像を遥かに超えていたわ。私がずっと聴きたかった音色だった。ねぇ、桃園さん、ラウンジピアニストの経験があるの?」

「いいえ」

「ピアノ教室や音大以外で誰かにピアノを教わった?貴女はいったい何者?」

「何者?と言われましても…… ピアニストを諦めた平凡な社会人です」

「諦めた?」

「突発性難聴を発症してしまって」

「そうだったの⁉︎ 今、症状は?」

「大丈夫です」

「そう……よかった。ごめんなさいね、事情も知らず、強引だったわよね」

「いいえ、私も、このような素敵な場所で、しかも、こんな素晴らしいピアノで演奏することができてとても光栄です。きっと母も褒めてくれるのではないかと思います」

「お母様?」

「はい、母はラウンジピアニストで、こちらのホテルの専属ピアニストでした」

「もしかして、お母様の名前は矢吹玲子(やぶきれいこ)さん?」

「はい、矢吹は母の旧姓です。矢吹のまま仕事をしていました」

「そう、だったのね…… まさかこんな形で聴くことが出来るなんて……」

高椿さんが私の手を両手で包み込む。

「私は、矢吹玲子さんのピアノが大好きだった。彼女の紡ぎ出す音色が、私たちの心を癒してくれていたのよ。もう、聴くことは叶わないのかもしれないって思っていたけど、しっかりと貴女に受け継がれていたのね。私は幸せ者だわ」

「そのように言っていただけて、とても嬉しいです。きっと母も喜びます」
< 46 / 151 >

この作品をシェア

pagetop