追放された調香師の私、ワケあって冷徹な次期魔導士団長のもとで毎日楽しく美味しく働いています。
126.寡黙な護衛は過去を振り返る
***
ネストレが手配した幌馬車で移動する最中のこと。
ラベクはアーディルを守るために周囲の様子を窺いつつ、ちらりと主であるアーディルの横顔を盗み見た。
(まさか、他国の人間にあのようなことを話すとは……)
アーディルはフレイヤたちに、誰かが自分の正体を暴いてくれる事を望んでいることや、人間ではない自分が国王になるべきではないと語った。
今までに一度もアーディルの口から聞いたことはなかったが、彼がそのように考えていることは察していた。
(それでも、いつかは私に話してくださると思っていたのだが……)
アーディルはラベクを信用しており、彼にだけ本心を打ち明けてきた。
しかし、今回は自分に話してくれる前に、他者――それも、会って間もない他国の人間に話したことが衝撃的だった。
(……いや、私に話したところで、私は絶対にアーディル殿下を国王にするとわかっていたから、話してくださらなかったのだろう)
アーディルの願いであれば、どのようなことでも叶えてきたが、次期国王を辞することだけは叶えられない。
たとえ、そのことが原因でアーディルに本心を隠されたとしても。
(アーディル殿下が即位すれば、イルム王国はより繁栄できる)
愛する第三王妃のために不正に目を瞑り、また上層階級の者たちばかりが甘い蜜を吸っている状態を放置している、現国王とは違う――。
(とはいえ、初めは一族の長からの命令だから、アーディル殿下を国王にするよう、動いていた)
ラベクは脳裏に、懐かしい記憶を思い浮かべた。
ラベクはイルム王国の上層階級――エイレーネ王国でいう侯爵家や公爵家の傍系家門に生まれた。
本家の長は錬金術に関わる国の組織の長官を担っており、また一族からは優れた錬金術師を数多く輩出してきた。
しかし、ラベクは幼い頃から武芸を叩きこまれ、武人として育てられてきた。
一族から後宮に送り出した第三王妃が王子を産んだ時の護衛としてつけるためだ。
兄たちからは錬金術の道を絶たれたことに同情されたが、もとより寡黙なラベクにとっては、ただ黙々と鍛錬を積むことが性に合っていたから苦ではなかった。
(当時の私は、護衛の仕事も難なくこなせると高を括っていた)
そして第一王子が生まれ、王子の護衛としての仕事が始まると、ラベクは「子どもの世話をする」という壁にぶつかるのだった。
王子の護衛というのは、ただ守るだけではなかった。護衛対象の世話をすることも含まれているのだ。
もちろん、食事や入浴は使用人たちがすのだが、王子に求められたら遊び相手や話し相手をしなければならない。
ラベクには弟がいたが、裕福な家に生まれたため弟には専属の使用人がいたため、ラベクが面倒を見ることはなかった。おまけに、子どもは苦手だ。
苦戦しながらも、周囲からアドバイスを聞いてなんとかこなしていたが、第一王子――本物のアーディルは五歳になった年、彼は食事に盛られて命を落とす。
ラベクは毒に蝕まれたアーデルの最期を確かに看取ったが、それなのに、なぜか国王もカデル家もアーディルの死を公表しなかった。
それどころか、彼の死を知る使用人たちが王宮から姿を消してしまったようで、気づけばごく一部の者しかアーディルの死を知らない状態になっていたのだ。
主を失って失意と無力感に苛まれていたラベクは、違和感を感じてはいたものの、探りを入れるほどの気力が残っていなかった。
彼らの不可解な行動の理由を知ったのは、第一王子が死んでから半年経った頃だった。
カデル家の長と前長――アーディルの叔父と祖父に呼び出され、彼らの屋敷を訪ねたラベクは、屋敷の地下にある錬金術のための実験室に案内された。
そこにいたのは、死んだはずのアーディルだ。王族らしい豪奢な服を着た五歳くらいの少年が、興味深そうに自分を見つめていたのだ。
「まさか、アーディル殿下に似た者を身代わりとして育てていたのですか?」
動揺したアーディルが当主に問うと、長は首を横に振った。
「これはアーディルに似せて作った人造人間だ。アーディルが死んだせいで娘は狂って使い物にならないから、用意したのだ。国王陛下には許可をとってあるから安心しろ」
「……!」
ラベクは言葉を失った。
人造人間を作ることは禁忌だ。それなのに、国王は容認したのだ。それも、自分の愛する第三王妃のためだからと、個人的な理由で。
(以前から国王陛下は第三王妃に甘いが……長たちがそれを利用して禁忌に手を染め始めるとは……このままでいいのだろうか?)
胸の奥に、不安と疑惑が芽吹く。
「今度は殺されないよう、徹底的に守れ。アーディルを国王にするためにも、邪魔者はすぐに始末しろ。そして、もしもあの人造人間が使い物にならなくなったら、知らせろ。新しい個体を用意する」
「……かしこまりました」
それでも、長からの命令は絶対だ。
幼い頃からそのように教育されていたため素直に従ったが、大切な主を模した人外に仕えることへの戸惑いは残ったまま。
そうして、ラベクは人造人間のアーディルに本物のアーディルの言動を真似るように教えながら、彼を守った。
人造人間は理性がないという噂とは違い、アーディルは人懐っこくて純粋無垢な仔犬のようだった。素直に本物のアーディルを演じ、飲み込みが早く、教えたことをすぐに覚えた。
ただ一つ気がかりなのは、五歳の子どもにしては恐ろしく頭の回転が速く、大人並みの思考で話せるということとだ。
人間と同じように、体が子どもの頃は子どもの思考を持つだろうと思い込んでいたラベクにとって誤算だった。
だから、ラベクはアーディルに、‶頭の良い五歳の王子〟として振舞うように言い含めた。
とはいえ、子どもと接することが苦手なラベクにとって、大人じみたアーディルとの会話はありがたい誤算でもあった。
アーディルが順調に身代わりを演じたため、ラベクは安堵したのだが――出会ってから三ヵ月経った頃、アーディルに自我が生まれたことで、問題が起きてしまった。
「もう、アーディルのフリをしたくない!」
まるで、地底で煮詰まっていた火山が噴火したかのように、アーディルが悲しみや怒りの感情を露にして、ラベクに訴えてきたのだ。
今までもそのように訴えてくることはあったが、こんなにも感情的になったのは初めてだ。
ラベクは毎度きちんとアーディルを説得できていたと思っていたが、その実、アーディルの不満が胸の中に留まり、沸々と煮詰められていたのだ。
アーディルがあまりにも従順なため気付けていなかったが、人造人間にも感情があるのだと、思い知らされた。
「しかし……あなたはアーディル殿下となるために生まれたのですよ。もしもその役目を放棄するなど、長たちが許してくれないでしょう」
「それなら、お爺様と叔父上に殺されたって良い。自分ではない人間を演じて、自分ではない人間として扱われていては……惨めで悲しくて、気がおかしくなりそうだ」
ラベクはどうにか宥めようと試みたが、アーディルは聞く耳を持たない。
このまま外に出しては、アーディルは自分が身代わりであることを周囲に公言してしまうかもしれない。
そう危惧したラベクは、しばらくの間、アーディルは病に伏していることとして、誰にも会わせずに部屋に留めることにした。
初めはアーディルを説得していたが、言葉だけではどうしようもないことに気づき、途方に暮れていた。
(あの頃は誰にも知られないよう必死だった。長と前長たちにも知られてはならないと、彼らさえも警戒していた)
長たちにとってアーディルは道具に過ぎない。不具合が起きれば殺して、また新たな人造人間を作るのだから。
本物のアーディルが亡くなった時、彼の死を知ってしまった使用人たち――自分たちより身分が低く利用価値のない者たちを闇に葬り去ったように。
どうにかして、今目の前にいるアーディルを守りたい。
そう思う理由はわからない。
前の主を失った時にできた心の傷が疼くからなのか、それとも、たった三ヶ月の間で彼に情が移ったのか――。
とにもかくにも、ラベクはアーディルを生かすために策を練った。
そこで思いついたのが、‶名前を贈ること〟だった。身代わりのために造られた彼だけの名前だ。
アーディルを部屋に押しとどめて三日経った頃。
ラベクは一枚の紙を持って、不貞腐れた様子のアーディルに話しかけた。
「私の立場では、あなたの役目を安全に取り除くことはできません。ですが、私と二人でいる時だけ役目を休めるよう調整はできます。その時に、あなたを呼ぶための、あなただけの名前を贈ってもよろしいでしょうか?」
「……! 私だけの名前?」
予想すらしなかった提案に驚いたのか、アーディルの不貞腐れた顔が剥がれる。
ラベクは小さく頷くと、手に持っていた紙をアーディルに手渡した。
「‶ハーディ〟はいかがでしょうか? 『穏やか』を意味する名前です。あなたが穏やかな気持ちで過ごせる時間が得られるよう、願いを込めました」
「ハーディ……私だけの名前……」
アーディルは目を輝かせ、紙を見つめたまま名前を呟く。何度も、形のないものの輪郭を確かめるように。
望めば高価な宝石も稀少な動物や魔獣も手に入るような立場にいるのに、目の前の少年は一枚の紙きれを、なによりも素晴らしい宝物を手にしたような顔で見つめている。
アーディルのそのような姿を見た時、ラベクは言いようのない気持ちが込み上げてきた。
(あの時、私は自分が思っている以上にアーディル殿下が大切な存在になっていることに気づいた)
情が移ったのではなく、彼を本当の主だと思っているからこそ、守りたいと思うようになった。
命令されたから主と認識したのではない。
己の与えられた役目を果たすために懸命に学ぶ姿を見守り、自身の感情を抑えていた事実を知ったからこそ、彼を守り、支えたいと思うようになったのだ。
その一件以降、アーディルはまた素直に演じるようになり、年齢を重ねると共により王太子に相応しい悠然とした態度と聡明さを自然と見せて、周囲から称賛されるようになった。
しかし、ラベクには我儘な一面を見せる。商人になってみたいと言われた時は、どうしたものかと頭を抱えたものだ。
(とはいえ、将来守るべき民たちの生活を学ぶ良い機会になった。長たちに比べたら、アーディル殿下の方がよほど国のためを想って行動している)
上層階級の者にしか目を向けない国王とは違い、アーディルが自らあらゆる階級の者の生活を見ている。
見て、彼らのためを考えて、災害や飢饉で彼らが苦しまないよう、陰ながら手を打って助けている。
アーディルのそばでその一部始終を見守っていたからこそ、ラベクは彼を次期国王にしたいと言う想いが強くなった。
(なにがあっても、あなたには王になっていただきます)
たとえ、アーディルとの間にある心の溝が深まることになるとしても。
そのために一族の長たちを裏切ることとなったとしても。
ラベクは小さく息を吐き、幌馬車の外に見える轍を鋭い眼差しで見つめる。
この先にあるエイレーネ王国の王都で、まずは一族の長と前長の影を断ち切るのだと、心に誓った。
ネストレが手配した幌馬車で移動する最中のこと。
ラベクはアーディルを守るために周囲の様子を窺いつつ、ちらりと主であるアーディルの横顔を盗み見た。
(まさか、他国の人間にあのようなことを話すとは……)
アーディルはフレイヤたちに、誰かが自分の正体を暴いてくれる事を望んでいることや、人間ではない自分が国王になるべきではないと語った。
今までに一度もアーディルの口から聞いたことはなかったが、彼がそのように考えていることは察していた。
(それでも、いつかは私に話してくださると思っていたのだが……)
アーディルはラベクを信用しており、彼にだけ本心を打ち明けてきた。
しかし、今回は自分に話してくれる前に、他者――それも、会って間もない他国の人間に話したことが衝撃的だった。
(……いや、私に話したところで、私は絶対にアーディル殿下を国王にするとわかっていたから、話してくださらなかったのだろう)
アーディルの願いであれば、どのようなことでも叶えてきたが、次期国王を辞することだけは叶えられない。
たとえ、そのことが原因でアーディルに本心を隠されたとしても。
(アーディル殿下が即位すれば、イルム王国はより繁栄できる)
愛する第三王妃のために不正に目を瞑り、また上層階級の者たちばかりが甘い蜜を吸っている状態を放置している、現国王とは違う――。
(とはいえ、初めは一族の長からの命令だから、アーディル殿下を国王にするよう、動いていた)
ラベクは脳裏に、懐かしい記憶を思い浮かべた。
ラベクはイルム王国の上層階級――エイレーネ王国でいう侯爵家や公爵家の傍系家門に生まれた。
本家の長は錬金術に関わる国の組織の長官を担っており、また一族からは優れた錬金術師を数多く輩出してきた。
しかし、ラベクは幼い頃から武芸を叩きこまれ、武人として育てられてきた。
一族から後宮に送り出した第三王妃が王子を産んだ時の護衛としてつけるためだ。
兄たちからは錬金術の道を絶たれたことに同情されたが、もとより寡黙なラベクにとっては、ただ黙々と鍛錬を積むことが性に合っていたから苦ではなかった。
(当時の私は、護衛の仕事も難なくこなせると高を括っていた)
そして第一王子が生まれ、王子の護衛としての仕事が始まると、ラベクは「子どもの世話をする」という壁にぶつかるのだった。
王子の護衛というのは、ただ守るだけではなかった。護衛対象の世話をすることも含まれているのだ。
もちろん、食事や入浴は使用人たちがすのだが、王子に求められたら遊び相手や話し相手をしなければならない。
ラベクには弟がいたが、裕福な家に生まれたため弟には専属の使用人がいたため、ラベクが面倒を見ることはなかった。おまけに、子どもは苦手だ。
苦戦しながらも、周囲からアドバイスを聞いてなんとかこなしていたが、第一王子――本物のアーディルは五歳になった年、彼は食事に盛られて命を落とす。
ラベクは毒に蝕まれたアーデルの最期を確かに看取ったが、それなのに、なぜか国王もカデル家もアーディルの死を公表しなかった。
それどころか、彼の死を知る使用人たちが王宮から姿を消してしまったようで、気づけばごく一部の者しかアーディルの死を知らない状態になっていたのだ。
主を失って失意と無力感に苛まれていたラベクは、違和感を感じてはいたものの、探りを入れるほどの気力が残っていなかった。
彼らの不可解な行動の理由を知ったのは、第一王子が死んでから半年経った頃だった。
カデル家の長と前長――アーディルの叔父と祖父に呼び出され、彼らの屋敷を訪ねたラベクは、屋敷の地下にある錬金術のための実験室に案内された。
そこにいたのは、死んだはずのアーディルだ。王族らしい豪奢な服を着た五歳くらいの少年が、興味深そうに自分を見つめていたのだ。
「まさか、アーディル殿下に似た者を身代わりとして育てていたのですか?」
動揺したアーディルが当主に問うと、長は首を横に振った。
「これはアーディルに似せて作った人造人間だ。アーディルが死んだせいで娘は狂って使い物にならないから、用意したのだ。国王陛下には許可をとってあるから安心しろ」
「……!」
ラベクは言葉を失った。
人造人間を作ることは禁忌だ。それなのに、国王は容認したのだ。それも、自分の愛する第三王妃のためだからと、個人的な理由で。
(以前から国王陛下は第三王妃に甘いが……長たちがそれを利用して禁忌に手を染め始めるとは……このままでいいのだろうか?)
胸の奥に、不安と疑惑が芽吹く。
「今度は殺されないよう、徹底的に守れ。アーディルを国王にするためにも、邪魔者はすぐに始末しろ。そして、もしもあの人造人間が使い物にならなくなったら、知らせろ。新しい個体を用意する」
「……かしこまりました」
それでも、長からの命令は絶対だ。
幼い頃からそのように教育されていたため素直に従ったが、大切な主を模した人外に仕えることへの戸惑いは残ったまま。
そうして、ラベクは人造人間のアーディルに本物のアーディルの言動を真似るように教えながら、彼を守った。
人造人間は理性がないという噂とは違い、アーディルは人懐っこくて純粋無垢な仔犬のようだった。素直に本物のアーディルを演じ、飲み込みが早く、教えたことをすぐに覚えた。
ただ一つ気がかりなのは、五歳の子どもにしては恐ろしく頭の回転が速く、大人並みの思考で話せるということとだ。
人間と同じように、体が子どもの頃は子どもの思考を持つだろうと思い込んでいたラベクにとって誤算だった。
だから、ラベクはアーディルに、‶頭の良い五歳の王子〟として振舞うように言い含めた。
とはいえ、子どもと接することが苦手なラベクにとって、大人じみたアーディルとの会話はありがたい誤算でもあった。
アーディルが順調に身代わりを演じたため、ラベクは安堵したのだが――出会ってから三ヵ月経った頃、アーディルに自我が生まれたことで、問題が起きてしまった。
「もう、アーディルのフリをしたくない!」
まるで、地底で煮詰まっていた火山が噴火したかのように、アーディルが悲しみや怒りの感情を露にして、ラベクに訴えてきたのだ。
今までもそのように訴えてくることはあったが、こんなにも感情的になったのは初めてだ。
ラベクは毎度きちんとアーディルを説得できていたと思っていたが、その実、アーディルの不満が胸の中に留まり、沸々と煮詰められていたのだ。
アーディルがあまりにも従順なため気付けていなかったが、人造人間にも感情があるのだと、思い知らされた。
「しかし……あなたはアーディル殿下となるために生まれたのですよ。もしもその役目を放棄するなど、長たちが許してくれないでしょう」
「それなら、お爺様と叔父上に殺されたって良い。自分ではない人間を演じて、自分ではない人間として扱われていては……惨めで悲しくて、気がおかしくなりそうだ」
ラベクはどうにか宥めようと試みたが、アーディルは聞く耳を持たない。
このまま外に出しては、アーディルは自分が身代わりであることを周囲に公言してしまうかもしれない。
そう危惧したラベクは、しばらくの間、アーディルは病に伏していることとして、誰にも会わせずに部屋に留めることにした。
初めはアーディルを説得していたが、言葉だけではどうしようもないことに気づき、途方に暮れていた。
(あの頃は誰にも知られないよう必死だった。長と前長たちにも知られてはならないと、彼らさえも警戒していた)
長たちにとってアーディルは道具に過ぎない。不具合が起きれば殺して、また新たな人造人間を作るのだから。
本物のアーディルが亡くなった時、彼の死を知ってしまった使用人たち――自分たちより身分が低く利用価値のない者たちを闇に葬り去ったように。
どうにかして、今目の前にいるアーディルを守りたい。
そう思う理由はわからない。
前の主を失った時にできた心の傷が疼くからなのか、それとも、たった三ヶ月の間で彼に情が移ったのか――。
とにもかくにも、ラベクはアーディルを生かすために策を練った。
そこで思いついたのが、‶名前を贈ること〟だった。身代わりのために造られた彼だけの名前だ。
アーディルを部屋に押しとどめて三日経った頃。
ラベクは一枚の紙を持って、不貞腐れた様子のアーディルに話しかけた。
「私の立場では、あなたの役目を安全に取り除くことはできません。ですが、私と二人でいる時だけ役目を休めるよう調整はできます。その時に、あなたを呼ぶための、あなただけの名前を贈ってもよろしいでしょうか?」
「……! 私だけの名前?」
予想すらしなかった提案に驚いたのか、アーディルの不貞腐れた顔が剥がれる。
ラベクは小さく頷くと、手に持っていた紙をアーディルに手渡した。
「‶ハーディ〟はいかがでしょうか? 『穏やか』を意味する名前です。あなたが穏やかな気持ちで過ごせる時間が得られるよう、願いを込めました」
「ハーディ……私だけの名前……」
アーディルは目を輝かせ、紙を見つめたまま名前を呟く。何度も、形のないものの輪郭を確かめるように。
望めば高価な宝石も稀少な動物や魔獣も手に入るような立場にいるのに、目の前の少年は一枚の紙きれを、なによりも素晴らしい宝物を手にしたような顔で見つめている。
アーディルのそのような姿を見た時、ラベクは言いようのない気持ちが込み上げてきた。
(あの時、私は自分が思っている以上にアーディル殿下が大切な存在になっていることに気づいた)
情が移ったのではなく、彼を本当の主だと思っているからこそ、守りたいと思うようになった。
命令されたから主と認識したのではない。
己の与えられた役目を果たすために懸命に学ぶ姿を見守り、自身の感情を抑えていた事実を知ったからこそ、彼を守り、支えたいと思うようになったのだ。
その一件以降、アーディルはまた素直に演じるようになり、年齢を重ねると共により王太子に相応しい悠然とした態度と聡明さを自然と見せて、周囲から称賛されるようになった。
しかし、ラベクには我儘な一面を見せる。商人になってみたいと言われた時は、どうしたものかと頭を抱えたものだ。
(とはいえ、将来守るべき民たちの生活を学ぶ良い機会になった。長たちに比べたら、アーディル殿下の方がよほど国のためを想って行動している)
上層階級の者にしか目を向けない国王とは違い、アーディルが自らあらゆる階級の者の生活を見ている。
見て、彼らのためを考えて、災害や飢饉で彼らが苦しまないよう、陰ながら手を打って助けている。
アーディルのそばでその一部始終を見守っていたからこそ、ラベクは彼を次期国王にしたいと言う想いが強くなった。
(なにがあっても、あなたには王になっていただきます)
たとえ、アーディルとの間にある心の溝が深まることになるとしても。
そのために一族の長たちを裏切ることとなったとしても。
ラベクは小さく息を吐き、幌馬車の外に見える轍を鋭い眼差しで見つめる。
この先にあるエイレーネ王国の王都で、まずは一族の長と前長の影を断ち切るのだと、心に誓った。