唇を隠して,それでも君に恋したい。



「伊織くん」

「? あ。君は……百合川さん」



百合川 姫。

一時期は僕との仲を噂され,僕に初めて告白してくれた女の子。

僕はまだ,完全に彼女のことを許したわけではない。

けれど今の僕には,あの日の出来事すら何でもなかった事のように思えた。



「僕に何か?」



淡々と尋ねると,百合川さんは僕を無理に覗き込んだ。



「私を見て,伊織くん。これ以上,ユリユリは辛そうな伊織くんを見たくないよ」

「……っ?」



こんな距離で,女の子の瞳を見たことなんて一度もない。

僕はその切実な瞳に気圧されて,抵抗することなく両頬を包まれる。



「あの日は,ごめんなさい。ユリユリ,本当に間違えたなって,良くないことをしたって心から反省してる。だから言われた通り,あの日以来絶対に話しかけないように我慢した。でも……分かんないけど,ユリユリ今の伊織くんがすごく心配なの」



今の,ぼく。



「話しかけられなくても,仲良くなれなくても。ユリユリはずっと見てた。伊織くん,この間まで見たことないくらいすごく楽しそうだったのに。今はすごく辛そうで,悲しい」



僕は口を開いて,閉じて,ゆっくりともう一度開く。



「心配してくれてありがとう。でも僕は……大丈夫だから。申し訳ないけど君には関係ないし,どうにもできない。僕のために何かしてくれることは出来ないよ」

「うーん。えー〜? ん~~~ー〜。そうかなぁ」



百合川さんは唸るように頭を左右に傾けて,最後にまたパッと僕を見つめた。



「分かった。今日は諦める。またね,伊織くん。別に何があったとか,そういう事を聞きたいわけじゃないの。毎日,伊織くんの明日がいい日になりますように」



百合川さんはそう言うと,にこりと笑ってスカートを翻し,本当に帰っていった。
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