公爵令嬢ヘレーネの幸せな結婚

◇朝露の会合◇

 昨夜の雨で洗い流された庭園は輝くような鮮やかさでヘレーネを迎えた。

 黄色い壁が瀟洒なヴィラ・マルシュタリールの前に立つ貴婦人は笑みを浮かべる。

「朝早くからありがとう、ネネ。貴女が来てくれるのを待っていたのよ」
「お招きいただきありがとうございます」

 ゾフィー大公妃の目元は化粧で隠してあるが青黒い隈ができている。
 濃い目の化粧で誤魔化しているが、よく眠れてないと一目でわかる顔だ。

 だが、大公妃は疲れをみせない華やかな笑顔を浮かべた。
 『バイエルンの薔薇』と讃えられた大公妃の美貌の名残りが感じられる。

「……昨夜はよく眠れて?」
「正直にいいますと、あまり寝れませんでした」
「あんな恐ろしいことがあったんですもの……ごめんなさいね。ネネには辛い思いをさせたわ」

 ゾフィー大公妃はヘレーネの両手を取り、労わるように握る。
 ウィーン宮廷を(かしず)かせた冷徹な政治家である大公妃は、ヘレーネに優しい伯母の顔をみせた。

 バイエルン人らしい黒髪に(はしばみ)色の瞳、ほっそりした華奢な身体。
 伯母と姪は性格は異なれど、醸し出す雰囲気と姿形が親子のようによく似ていた。

 だから自然と、親愛の情を抱くのかもしれない。

「大公妃殿下に謝っていただくことではございません。謝罪するのは私のほうです」

 胸元に入れた手紙がかさりと音を立てる。その感触にヘレーネは勇気づけられた。
 深々と腰を屈め、ゾフィー大公妃の右手を取り額に当てた。

「見合いの場を設けていただきながら、皇帝陛下に気に入っていただけず申し訳ありません」

 まだ日も昇らぬうちに、タクシス候世子アントンの遣いから手紙が届けられ、ヘレーネは驚愕した。

 何をどうやったか不明だが、到着するまでに数日を要するはずの手紙が短時間でザクセン王国に届き、更には兄の返信を持ち帰っていた。

 手紙には短くへレーネの提案に賛同した旨と、『バイエルン公世子(エルプヘルツォーク)はヘレーネを守る』と兄の筆跡で書かれていた。

 バイエルン公の世継ぎであるルートヴィヒがヘレーネの後ろ盾になった。
 この世でこれ以上、心強いことはない。

「私の立場を慈悲深く慮っていただき、ありがたく存じます。
 今はただ、皇帝陛下と我が妹、そして帝国の将来を微力ながら支えていきたいと、願うのみ──」
「諦めるのはまだよ」
 
 言い終えるのを待たずにバッサリと斬り込んだ声に、ヘレーネは弾かれたように顔を上げる。

 大公妃は白い手でへレーネの頬を手挟み、艶然と微笑んだ。その笑みに得体のしれない恐ろしさを感じ、ヘレーネの背中をぞくりとしたものが這い上がる。

 聞き分けのない幼子に言い聞かせるように、大公妃がゆっくりと話し始める。
 よく通る声が庭園に響いた。
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