公爵令嬢ヘレーネの幸せな結婚
「初めて夫のフランツ・カール大公と会った時、私は貴女以上に散々だった。夢見る若い王女にとって大公の容姿は受け入れがたいものだったわ。
それ以上に堪えたのは、大公は私に全く興味を示さなかったこと──」
ウィーンからバイエルン王国を訪れたフランツ・カール大公を見て、うら若き王女ゾフィーは愕然とした。
突き出た分厚い下唇、鷲鼻、鋭く尖った顎。
ハプスブルク家の特徴的な容姿をした大公は、予想した以上に醜く暗かった。
(これが、マリア・テレジアの曾孫……)
ハプスブルク家一の名君と謳われたマリア・テレジア。輝く美貌の女大公は、叡智と度胸で大国オーストリアを率い、実質的な『女帝』となった。
英傑の曾孫フランツ・カールは、容姿の醜さが性格にも反映されたかのように、陰気で覇気がない。
類まれな美貌をもつゾフィーを前にすると、数多の貴公子が目を輝かせてお近づきになろうとする。
だが、カールはゾフィーを一瞥すると心底嫌そうな顔をして、溜息をついた。
心が折れそうになりながらも、懸命に話しかけ話題を膨らませようとするが、大公は軽蔑した眼差しをゾフィーに浴びせた。
バイエルン国王夫妻は娘を不憫がって、この縁組に怯んだように消極的になった。
だが、いくら親心が痛もうが、両国関係強化のためにオーストリア帝国皇子との婚姻は必要なことだった。
健康で美形の多産家系のヴィッテルスバッハの血。そして男勝りの弁舌と知性をもつ才気煥発なゾフィーは、オーストリア帝国の未来にとっても欠かすことはできない花嫁であった。
皇帝に重々言い含められてきたのだろう。心底嫌そうなフランツ・カール大公の求婚に、ゾフィーは頷くしかなかった。
感情豊かな双子の妹マリア・アンナは、カール大公を一目見るなり激しい嫌悪感を露わにした。
「ねぇ、ゾフィー。考え直して。わざわざあんな小鬼みたいな皇子に嫁ぐよりも、格が落ちても見目麗しい貴公子を探そうよ」
「格が落ちた相手なんて、お父上は許してくださらないわ」
バイエルン王国は、ナポレオンによって王国に昇格したばかりの新興王国である。
ナポレオンは神聖ローマ帝国内の全ドイツ諸侯を離脱させ、神聖ローマ帝国を解体へ追いやった。
ナポレオンの提案に真っ先に乗って神聖ローマ帝国を裏切り、選帝侯から初代バイエルン国王になったマクシミリアン一世。
野心家の父は、娘たちをヨーロッパの有力者の元へ次々と送った。
長女のアウグステ・アマーリアはナポレオンの義理の息子であるイタリア王国の副王に嫁いだ。
カロリーネ・アウグステは、オーストリア皇帝フランツ1世の皇妃となった。
エリーザベト・ルドヴィカはプロイセン王太子妃に、アマーリエはザクセン王弟の妃となった。
父王は他国に侮られることないように、神経を尖らせている。
政略の駒であるバイエルン王女たちが、自由に結婚相手を選べるはずもなかった。
「マリア・アンナは分かってないわね。私はフランツ・カール大公の為人をよく理解した上で、ハプスブルク家に嫁ぐことを受け入れたのよ」
「何故よ!? あんな冴えない皇子のどこがいいの?」
「オーストリア帝国皇帝フランツ一世の皇子は、フェルディナント皇太子とフランツ・カール大公のみ。
皇太子は羸弱。
因って帝国の将来を託されるのは大公おひとり」
フェルディナント皇太子は、虚弱体質で多くの疾患を抱えている。
知能と発達に遅れがあり花嫁選びは難航。
未だ独身で、世継ぎを設けることは絶望的と見做されている。
カール大公こそが、次なるオーストラリア帝国の皇帝と目されていた。
ゾフィーは前向きにこの結婚に向き合い、美点を洗い出していた。
王族として生まれたのだから政略結婚は必須。ならばより華やかな大舞台がいいだろう。
フランツ・カール大公は帝国を導く野心も気概もない。無気力で己一人の命でさえ持て余し、世を厭っている。
ならば遠からず、ハプスブルク家の実権はゾフィーの手に転がり込む。
ヨーロッパの歴史を紡いできた名門はゾフィーの掌中に収めることができるのだ。
そう考えるとフランツ・カール大公はいい結婚相手に思えてくる。
未来の皇妃に相応しく華やかな嫁入り支度をして、ゾフィーはウィーン宮廷へ送り込まれた。
アウグスティーナ教会で夫婦の誓いを立てた後も、フランツ・カール大公はゾフィーを冷たくあしらった。
趣味の狩猟に夢中で妻を顧みない。
女性と浮名を流す。
だが、ゾフィーも夫フランツ・カール大公に愛情など求めなかった。
度重なる流産に苦悩したが、宮廷医に勧められたイシュルでの湯治が功を奏し、念願の皇子を産むことができた。
押し寄せる革命の波を巧みに利用して宰相メッテルニヒを蹴落とし、息子に帝冠を被せることができた。
「息子に貴女を受け入れるように、よく言い聞かせておくわ。些細なことに挫けては駄目よ、ヘレーネ」
ゾフィーは胸襟を開き、激励する。
痩せすぎているせいか目つきにキツさがあるものの、ヘレーネは整った顔立ちをしている。
ウィーン宮廷の女官たちに磨かせれば嘸かし見栄えのする皇妃となるだろう。
未来図を描くゾフィーに対して、ヘレーネは暗い顔で首を横に振った。
「大公妃殿下、お許しください。どうか身を引かせてくださいませ」
「何故? この縁談を断ると、一生を燻ることになるわ。よくわかっていて? フランツ・ヨーゼフが花嫁候補の貴女を一顧だにしなかったことは近日中に周辺諸国に広まるのよ」
「わかってます。それでも、この縁談を受け入れるわけにはまいりません」
ゾフィーは何故、姪が頑なに拒むのか理解できない。
不名誉な公爵令嬢から栄えあるオーストリアの皇妃に返り咲けるのに。
「ヘレーネ、貴女は何を恐れているの? 気を強く持ちなさい。情の通じた結婚生活など、王族の結婚には不要よ。
息子は責任感が強いから義務を果たすでしょう。何も心配することはないわ」
フランツ・ヨーゼフの心をヘレーネは掴むことはできなかったが、結果さえ良ければいいのだ。
──跡継ぎの皇子さえ産んでくれたらいい。
励ましの声をかけるゾフィーは、ヘレーネこそオーストリアの皇妃に相応しい素質があると確信していた。
だが、ヘレーネの意志は変わらなかった。
「縁談をお断りすると家族の了承を得てます。妹のエリーザベトには、愛する人と結ばれて幸せな結婚生活を送って欲しいからです」
「妹の為? 馬鹿馬鹿しい。……そんなつまらない理由でこの縁談を拒もうというの?」
畳み掛けるように言い募るゾフィーの剣幕に怯えながらも、へレーネは屈することはなく気持ちを吐露した。
「妹の為でもあります。妹の為……そして、私の為でもあります。私は、愛のない暮らしは耐えられません」
フランツ・ヨーゼフは、へレーネの肖像画を飾ってくれるだろうか。
きっと、飾るまい。
幼い頃に恐れた、貶められ軽んじられ、我慢して耐える暮らし──ヘレーネには到底、受け入れられなかった。
温情をきっぱり断られたゾフィーは額に青筋を立てて、ヘレーネを睨む。
大人しい従順な娘だと思っていたが、ヘレーネの決意は固いようだ。
嫌がる馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないように、肝心のヘレーネに婚姻への意欲がないなら懇願しても無駄である。
「本当に残念だわ、ヘレーネ。後悔することになるわよ?」
「ええ、きっと大公妃殿下のおっしゃる通り、後悔するでしょう。覚悟はできております」
皇帝はへレーネを愛さないだろうし、へレーネも愛さないだろう。
だが、それが何だというのだ。
愛し合わなくても夫婦にはなれるというのに──。
ゾフィーは呆れ果てた。だが同時にこの姪を哀れにも思う。
愛の有無など不確かなものに拘って名誉回復の機会を棒に振るなんて、なんとも愚かだ。
曰くのついた姫を娶る王家はどこにもないだろう。
不名誉な過去を背負って嘲りの中で生きていくなど、ゾフィーには耐えられない。
目の前の憎らしい姪っ子は、我が身を犠牲にしてでもエリーザベトを皇妃にする気だ。
「ならば──」
──バイエルン公爵家との縁組は取りやめて、他の王家をあたる。
そんな言葉を口に上らせる寸前で、脅し文句にならないことに気づきゾフィーは口を噤んだ。
それ以上に堪えたのは、大公は私に全く興味を示さなかったこと──」
ウィーンからバイエルン王国を訪れたフランツ・カール大公を見て、うら若き王女ゾフィーは愕然とした。
突き出た分厚い下唇、鷲鼻、鋭く尖った顎。
ハプスブルク家の特徴的な容姿をした大公は、予想した以上に醜く暗かった。
(これが、マリア・テレジアの曾孫……)
ハプスブルク家一の名君と謳われたマリア・テレジア。輝く美貌の女大公は、叡智と度胸で大国オーストリアを率い、実質的な『女帝』となった。
英傑の曾孫フランツ・カールは、容姿の醜さが性格にも反映されたかのように、陰気で覇気がない。
類まれな美貌をもつゾフィーを前にすると、数多の貴公子が目を輝かせてお近づきになろうとする。
だが、カールはゾフィーを一瞥すると心底嫌そうな顔をして、溜息をついた。
心が折れそうになりながらも、懸命に話しかけ話題を膨らませようとするが、大公は軽蔑した眼差しをゾフィーに浴びせた。
バイエルン国王夫妻は娘を不憫がって、この縁組に怯んだように消極的になった。
だが、いくら親心が痛もうが、両国関係強化のためにオーストリア帝国皇子との婚姻は必要なことだった。
健康で美形の多産家系のヴィッテルスバッハの血。そして男勝りの弁舌と知性をもつ才気煥発なゾフィーは、オーストリア帝国の未来にとっても欠かすことはできない花嫁であった。
皇帝に重々言い含められてきたのだろう。心底嫌そうなフランツ・カール大公の求婚に、ゾフィーは頷くしかなかった。
感情豊かな双子の妹マリア・アンナは、カール大公を一目見るなり激しい嫌悪感を露わにした。
「ねぇ、ゾフィー。考え直して。わざわざあんな小鬼みたいな皇子に嫁ぐよりも、格が落ちても見目麗しい貴公子を探そうよ」
「格が落ちた相手なんて、お父上は許してくださらないわ」
バイエルン王国は、ナポレオンによって王国に昇格したばかりの新興王国である。
ナポレオンは神聖ローマ帝国内の全ドイツ諸侯を離脱させ、神聖ローマ帝国を解体へ追いやった。
ナポレオンの提案に真っ先に乗って神聖ローマ帝国を裏切り、選帝侯から初代バイエルン国王になったマクシミリアン一世。
野心家の父は、娘たちをヨーロッパの有力者の元へ次々と送った。
長女のアウグステ・アマーリアはナポレオンの義理の息子であるイタリア王国の副王に嫁いだ。
カロリーネ・アウグステは、オーストリア皇帝フランツ1世の皇妃となった。
エリーザベト・ルドヴィカはプロイセン王太子妃に、アマーリエはザクセン王弟の妃となった。
父王は他国に侮られることないように、神経を尖らせている。
政略の駒であるバイエルン王女たちが、自由に結婚相手を選べるはずもなかった。
「マリア・アンナは分かってないわね。私はフランツ・カール大公の為人をよく理解した上で、ハプスブルク家に嫁ぐことを受け入れたのよ」
「何故よ!? あんな冴えない皇子のどこがいいの?」
「オーストリア帝国皇帝フランツ一世の皇子は、フェルディナント皇太子とフランツ・カール大公のみ。
皇太子は羸弱。
因って帝国の将来を託されるのは大公おひとり」
フェルディナント皇太子は、虚弱体質で多くの疾患を抱えている。
知能と発達に遅れがあり花嫁選びは難航。
未だ独身で、世継ぎを設けることは絶望的と見做されている。
カール大公こそが、次なるオーストラリア帝国の皇帝と目されていた。
ゾフィーは前向きにこの結婚に向き合い、美点を洗い出していた。
王族として生まれたのだから政略結婚は必須。ならばより華やかな大舞台がいいだろう。
フランツ・カール大公は帝国を導く野心も気概もない。無気力で己一人の命でさえ持て余し、世を厭っている。
ならば遠からず、ハプスブルク家の実権はゾフィーの手に転がり込む。
ヨーロッパの歴史を紡いできた名門はゾフィーの掌中に収めることができるのだ。
そう考えるとフランツ・カール大公はいい結婚相手に思えてくる。
未来の皇妃に相応しく華やかな嫁入り支度をして、ゾフィーはウィーン宮廷へ送り込まれた。
アウグスティーナ教会で夫婦の誓いを立てた後も、フランツ・カール大公はゾフィーを冷たくあしらった。
趣味の狩猟に夢中で妻を顧みない。
女性と浮名を流す。
だが、ゾフィーも夫フランツ・カール大公に愛情など求めなかった。
度重なる流産に苦悩したが、宮廷医に勧められたイシュルでの湯治が功を奏し、念願の皇子を産むことができた。
押し寄せる革命の波を巧みに利用して宰相メッテルニヒを蹴落とし、息子に帝冠を被せることができた。
「息子に貴女を受け入れるように、よく言い聞かせておくわ。些細なことに挫けては駄目よ、ヘレーネ」
ゾフィーは胸襟を開き、激励する。
痩せすぎているせいか目つきにキツさがあるものの、ヘレーネは整った顔立ちをしている。
ウィーン宮廷の女官たちに磨かせれば嘸かし見栄えのする皇妃となるだろう。
未来図を描くゾフィーに対して、ヘレーネは暗い顔で首を横に振った。
「大公妃殿下、お許しください。どうか身を引かせてくださいませ」
「何故? この縁談を断ると、一生を燻ることになるわ。よくわかっていて? フランツ・ヨーゼフが花嫁候補の貴女を一顧だにしなかったことは近日中に周辺諸国に広まるのよ」
「わかってます。それでも、この縁談を受け入れるわけにはまいりません」
ゾフィーは何故、姪が頑なに拒むのか理解できない。
不名誉な公爵令嬢から栄えあるオーストリアの皇妃に返り咲けるのに。
「ヘレーネ、貴女は何を恐れているの? 気を強く持ちなさい。情の通じた結婚生活など、王族の結婚には不要よ。
息子は責任感が強いから義務を果たすでしょう。何も心配することはないわ」
フランツ・ヨーゼフの心をヘレーネは掴むことはできなかったが、結果さえ良ければいいのだ。
──跡継ぎの皇子さえ産んでくれたらいい。
励ましの声をかけるゾフィーは、ヘレーネこそオーストリアの皇妃に相応しい素質があると確信していた。
だが、ヘレーネの意志は変わらなかった。
「縁談をお断りすると家族の了承を得てます。妹のエリーザベトには、愛する人と結ばれて幸せな結婚生活を送って欲しいからです」
「妹の為? 馬鹿馬鹿しい。……そんなつまらない理由でこの縁談を拒もうというの?」
畳み掛けるように言い募るゾフィーの剣幕に怯えながらも、へレーネは屈することはなく気持ちを吐露した。
「妹の為でもあります。妹の為……そして、私の為でもあります。私は、愛のない暮らしは耐えられません」
フランツ・ヨーゼフは、へレーネの肖像画を飾ってくれるだろうか。
きっと、飾るまい。
幼い頃に恐れた、貶められ軽んじられ、我慢して耐える暮らし──ヘレーネには到底、受け入れられなかった。
温情をきっぱり断られたゾフィーは額に青筋を立てて、ヘレーネを睨む。
大人しい従順な娘だと思っていたが、ヘレーネの決意は固いようだ。
嫌がる馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないように、肝心のヘレーネに婚姻への意欲がないなら懇願しても無駄である。
「本当に残念だわ、ヘレーネ。後悔することになるわよ?」
「ええ、きっと大公妃殿下のおっしゃる通り、後悔するでしょう。覚悟はできております」
皇帝はへレーネを愛さないだろうし、へレーネも愛さないだろう。
だが、それが何だというのだ。
愛し合わなくても夫婦にはなれるというのに──。
ゾフィーは呆れ果てた。だが同時にこの姪を哀れにも思う。
愛の有無など不確かなものに拘って名誉回復の機会を棒に振るなんて、なんとも愚かだ。
曰くのついた姫を娶る王家はどこにもないだろう。
不名誉な過去を背負って嘲りの中で生きていくなど、ゾフィーには耐えられない。
目の前の憎らしい姪っ子は、我が身を犠牲にしてでもエリーザベトを皇妃にする気だ。
「ならば──」
──バイエルン公爵家との縁組は取りやめて、他の王家をあたる。
そんな言葉を口に上らせる寸前で、脅し文句にならないことに気づきゾフィーは口を噤んだ。