猫は口実
数週間後、指定されたお店に向かった。

そのお店は、とあるビルの20階にあるバーだった。

カジュアルな雰囲気のバーで、良い意味でオシャレ過ぎないなと思った。

カウンター席にいますと、事前に連絡をもらっていた。

店員に伝え、カウンター席に通してもらった。

すると、確実に見覚えのある長い黒髪が目に入った。

『お久しぶりです。カリタです。はじめましての方が良かったかな?』

『いえいえ。一度お会いしてますし、ご無沙汰してます。』

軽く挨拶を終え、背の高い椅子に腰を下ろした。

そのまま自分のドリンクの注文を済ませた。

カリタさんは既に何か少し飲んでいた。

何かって、絶対にお酒ではある。

『すみません、お先に。』

『いえいえ、とんでもないです。どんどん飲んでください。』

グラスを片手に、にやっとカリタさんが笑った。

数分程して、私が注文したお酒が運ばれてきた。

『では乾杯。』

『か、かんぱい!』

お互いにグラスを付き合わせた後、ついに本題を切り出した。

今日という日を、私なりにすごく緊張して迎えたつもりだった。

しかし、彼はあの飲み会のことを全く覚えていなかったのだ。

『だっはっは。いやぁ、全く覚えていませんね。僕の髪、食べられてたのか。』

『そう…だったんですね。かなり失礼なことしてしまったから、怒ってるかと思いました。良かったぁ。』

『全く思い出せませんね。それにもし、覚えていたとしても、飲みの席ですから。怒ったりはしませんよ。』

『そういうもんなんですね。ってことは、私のことも覚えてはいませんか?』

『うーん、うっすらかな。僕も結構飲んでましたからね。でも、忘れてはいませんよ。』

『ははは。うっすらなんですね!』

笑いながら私はグラスに口をつけた。

今回の件に関しては、忘れてくれていた方がありがたい。

でも、私のことは覚えていて欲しかったなどと、自分の頭が大変わがままなことを考えていることに気がついてしまった。

全部覚えてたら嫌だけど、自分の存在は覚えていて欲しい。

無茶な願いだなと、我ながら思う。

しばらくお互いに酒を飲んでいると、カリタさんが口を開いた。

彼の顔が少し赤いのは、酒が回ったからなのか。

『それにしても、今日は僕の勝手な勘違いでしたね。間違えたなぁ。張り切って来ちゃいました。いやぁ、このスーツも、普段着ないやつ着ちゃって。』

『そうなんですね。勘違いってなんですか?』

『ほら、幹事の人いるでしょ?なんか、若い子が僕に気があるみたいなことを言ってたとか、言ってまして。それで今日は会うもんだと思ってたんです。』

『あー、あの人すぐそういうこと、言いそうですよね。』

『そうなんですよ。間に受けちゃいました。まぁでも、フジノさんがこうしてわざわざ謝りに来てくれたこと。僕はすごく嬉しいです。』

カリタさんよりは結構若いかもだけど、別に若くはない。

その点はさておき、あの自称友達千人男、本当に余計なことを言う。

思っていた通りの人だ。

あの男の性格を考えると、誰にでもこういうノリなんだと思うから、そこまでは腹も立たない。

それに、勘違いかどうかなんてまだ分からないのに。
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