腹黒御曹司の一途な求婚
 ガシャーンッと、店内にガラスの割れるけたたましい音が響き渡ったのは、ディナー営業のピークタイムの真っ只中、午後八時を過ぎた頃だった。

「失礼いたしました」

 接客もこなしつつホールを見回っていた私はその音を聞いてすぐさま頭を下げた。
 けれども店内に流れる優雅なクラシック音楽に混じってかすかに怒号が聞こえてきて、思わず眉を顰める。
 
 案の定、お客様の中にも、何事かといった様子で店内を見回している方がいた。
 私はすぐさま近くのスタッフへ、店内のBGMの音量を少し上げてくるよう指示を出す。これで怒声がかき消えてくれればいいけれど……。
 
 くぐもり具合から察するに、声は恐らく個室から。『プレジール』には個室が二部屋あって、平日の今日の予約は一件、久高くんのものだけだ。

 焦った素振りは見せず、それでいて素早く怒号の発生源へと向かう私の胸中は複雑だった。
 お店の責任者としてトラブルの兆しを憂慮する気持ちと、久高くんと必要以上に関わりたくないという個人的な感情がせめぎ合っている。

 もちろんそんな個人的な理由で職務を放棄することなどできないので、逃げ出したい気持ちを押し殺して足を進める。
 
 が、その途中で個室からひどく青ざめた表情の小芝ちゃんが勢いよく飛び出してきた。小芝ちゃんは私を視界に入れるやいなや、今にも泣き出しそうに顔を歪め、限りなく走るに近い早歩きで私の元へ近づいてくる。

「美濃さん、すみませんっ!」

 周囲に配慮した小声だけれども、かなり切羽詰まった様子で小芝ちゃんは私に縋りついたてきた。
 その様子に目を瞠りつつ、かといってお客様の目につくところで話すわけにもいかないので小芝ちゃんをパーテーションの向こうへ連れて行く。
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