現れたのは聖竜様と予想外の溺愛でした
このように、莉亜に対して好意的なジルだったが、彼は指一本たりとも壁画に触ることはせず、椅子から立ち上がることもなかった。
莉亜も、手伝ってとは言わなかった。この上さらに借りを作るようで居心地が悪かったのである。

「……下の方は、だいぶ浮き出てきた」

それから数日後。
莉亜の身長分だけ、壁画は修復された。
少し壁から下がって全体を見渡す。
翼を広げた竜の腹部から下が、鮮やかな彩りをもって壁に羽ばたいている。
ファンタジー映画でよく見るようなどっしりとしたふくよかな腹部ではなく、しなやかな曲線を描いたそれは尾を優雅に舞わせて悠々と飛んでいる。
当初青鈍色に見えていた鱗は、浄めるにつれて螺鈿にも似たねっとりした光を放ち、角度によっては銀色や朱色にも見える。

「……綺麗…………」
「そう」

莉亜が壁画の感想を口にする時、決まってジルは気のない風に答えを返す。
莉亜としては浮かび上がってきた驚きや美しい壁画への感嘆を共有したいのだが、彼にそのつもりはなさそうだ。
こうした反応にも慣れっこになった莉亜は、自分の身長より高い場所での作業を開始するために、書き物机と共に設えられた椅子を踏み台に持ってきた。
優雅な椅子を脚立代わりにするのは気が引けるが、他に代用するものもない。
座面に立ってみる。なんとかなりそうだ。

「このまま汚れを払ったらせっかく綺麗にした下に落ちる……よね」

磨きあげられた床を眺めてため息をつく。
上からやれば良かった、と計画性の無さに肩を落とす莉亜だが、あの時は目先の汚れから落とすしかなかったのだと自分に言い聞かせる。
最後に下をもう一度掃除し直せばいいと納得させた。
いろいろと助言してくるジルも、これに関しては何も言わなかったんだもの、と頭の中で責任転嫁しつつ作業に入った。
こうなると、後ろで座って見ているだけのジルの存在など莉亜にとっては居ないものと同義だ。

目の前の汚れと向き合う。拭い、削り、払い、吹く。
単純な作業に没頭していく。
その集中力に助けとなる会話も音楽も必要はない。
たたひたすらに、浄める。
時折土煙が立って浅く咳き込むが、次第に窓から流れてきたのかそよ風が微粉をさらっていく。
楽になった呼吸の元で、莉亜の手はよどみなく動く。

やがて、手が動かせる範囲はすっかり浄められていた。
今までと同じように表面に付着した砂などを吹けば、長く伸びたしなやかな角が見えた。
鹿の角のようにいくつも枝分かれしたそれは、威厳の発露を象徴しているかに見える。
もう少し左側が顕になれば、竜の顔が見える。
どんな顔つきをしているのだろうか。
気が急くあまり、一度降りて椅子を移動させることももどかしく、上体を左に傾けて作業に入った莉亜に、今日の作業に入ってから初めてジルが声を上げた。

「やめろ、あぶな──」

重心が左に寄りすぎた。
さほど広くない座面では莉亜を支え切ることができずに、がたん、と椅子の脚が悲鳴をあげる。

まずい。

咄嗟に莉亜は壁にしがみつこうとしたが、土が詰まったそれはさらさらと莉亜の手を流し落とした。

椅子の倒れる音がした。

「間一髪、か」

莉亜の視界はさほど変わっていなかった。
だが、彼女の体を支えるのは椅子ではない。
脇の下から抱えあげるように差し込まれた腕。
背中にぴたりと密着する固い胸板。
頭上でほうと吐息をついたのは安堵のためか。

「…………ジル?」

ゆっくりと振り向いた莉亜の眼差しを受けて、ジルは微笑んだ。

「熱心なのはいいけれど、無茶はいけない」

陽射しの上でとろりと溶けたバターのようなあたたかな声色にも関わらず、莉亜はきょとんと大きな瞳を見開いてジルを見つめている。
こんなにも近い距離だと言うのに恥じらいを忘れたかのようなふるまいに、ジルのほうがいたたまれなくなってかすかに首を傾げた。

「ええ、と。莉亜、どうしたんだい?」
「……ジル、動けたんですね」
「え?」
「いつも椅子から動かずにアドバイスしてくるだけだから、そういうスタンスなのかと」

驚きのあまり率直すぎる物言いになってしまった莉亜に、ジルはしばし瞬きだけで考えをまとめる。
銀色の睫毛が上下する様を莉亜はじっくり眺めていた。

「……動けている、のか」
「え、無自覚なんですか?」

今気がついたといったふうに、ジルは先程まで自分が座っていた玉座と現在の位置を何度も視線で往復する。
ふ、と漏れた吐息は確かに笑みを含んだもので。

「はは、そうか! またしても莉亜のおかげだな!」
「え? 私の? どうしてそうなるんです?」

笑い声とともに脇の下に差し込まれた腕が、莉亜をぎゅうと抱きしめる。
足のつかない抱擁に戸惑いを隠せない莉亜だが、いつも静かに微笑むだけのジルが声を上げて笑うことが心地よくて、いつしかつられて笑っていた。

「……よし、今日からは私がリアの翼となろう。もう椅子に立たずとも大丈夫だ」

呼吸を整えたジルは莉亜をしっかりと抱え直して折り曲げた腕に莉亜の尻を乗せる。
急に高くなった視界と上半身の不安定さ、そして何より男性に抱えられている状況に慌てふためく莉亜だが、ジルはもう椅子を書き物机の側にどけてしまった。
頼れるのはジルだけ──そんな体勢に、莉亜はジルをそっと見下ろす。

「落とさないで、くださいね」

不安げに揺れる瞳に、真珠色のまなざしが細められた。

「もちろん。リアは私が守るよ」
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