私と彼の溺愛練習帳
「先輩、大丈夫ですか?」
美和の声で、はっと我に返った。
「ぼうっとしちゃって、調子悪いですか?」
「ちょっと考え事しちゃって」
「悩みなら聞きますよ?」
「いつもどうやったら売り上げが上がるのか、悩んでるのよね」
「それは私には無理なやつです」
美和は笑った。
からっとした笑顔に、雪音もまた笑った。
帰路は少しだけ心が浮き立っていた。
閃理の家は自分の居場所ではない。
それでも彼が受け入れてくれるから、つい甘えてしまう。出て行かなくちゃと思うのに、彼が望んでいるからと言い訳してずるずると彼のマンションに住んでいた。
叔母たちと暮らしているときは、帰宅が億劫で仕方なかった。母が帰る場所だから、気力を振り絞って帰っていた。
正直なところ、彼といると幸せだ。
だが、わかっている。幸せの次には惨苦が待っている。幸福なんてそれをよりいっそうつらく感じさせるための小道具だ。
だから彼に酔ってはいけない。彼のくれる偽の愛に酩酊したとき、待っているのはさらなる苦痛だ。
問題はなにも解決していない。叔母には家を取られ、母には会えないまま。
わかっているのに。
おかえり、とうれしそうに迎えてくれる閃理がいる。
それはマッチの火よりも明るく温かく、雪音の心を照らしてくれる。
母の状況はわからない。幸せでいるのか、苦しんでいるのか。母が苦境にいるなら、自分だけが幸せでいるのはまるで裏切りだ。
今だけ。今だけは許して、お母さん。
そう思って、帰る足を速める。
今日は閃理はどんなごはんを作ってくれるだろう。寒いからお鍋かな、おでんかな。
待っていてくれる人がいて、お風呂に入ってごはんが食べられる。一緒に笑ってくれる人がいる。割れた氷が、物理法則に反してもとに戻っていくかのようだ。
だから、その男を見たときは天から地に叩きつけられたようだった。
愕然と見つめてしまい、視線に気づいた男が振り返った。