御曹司は初心な彼女を腕の中に抱きとめたい
「安藤さん、営業に新しい人が入るからパソコンと名刺の用意を頼める?」

「はい」

ここでの仕事は目立つこともなく、日々黙々とこなすようなものが多い。でも私はなんの不満もなく、地味な作業が好きだ。昔から前面に出るよりも後方支援の方が合っていると自分で思っている。
たまにもらうお土産が嬉しかったり、誰かに「ありがとう」って言ってもらえる言葉だけで私は満足だ。やりがいがあるのか、と言われるとよく分からないけれど、誰かがやらなければならないし、役に立てると思える仕事ではあると思っている。
今日も日々のルーティンワークをこなし、定時で退社した。
久しぶりにベリヶ丘駅の近くにあるショッピングモールに寄り、ご飯を食べて帰ろうかとひとりでニンマリした。たまにはトンカツがいいかな。でもふわとろのオムライスも捨てがたいなぁと電車に揺られながら考えていた。金曜はなんとなく自分の中でのんびり美味しいものを食べる気分になってしまう。友達と行く日もあるが、だんだんとみんな付き合ってる人と金曜の夜は過ごす人が多くなり、私と行ってくれる人が減ってしまった。おひとり様は寂しいけど慣れてきた。
途中ターミナル駅で乗り換えようとした時、混み合い、押されてしまった私はバッグが近くの男性に思い切りぶつかってしまった。

「ごめんなさい」

慌てて頭を下げて謝ると、ボソッと「大丈夫です」と返事が返ってきた。顔を上げると目元を隠すように前髪が垂れた長身の男性が立っていた。

「すみませんでした」

再度謝り、ホームを移動しようとしたらパッと手首を掴まれた。

「あの……」

「え?」

思わず掴まれた手首の感触にゾッとした。グッと手を引くとするりと抜けてくれた。

「あ、違うんです! この前会いましたよね?」

慌てたように私に話しかけてくる姿を見ても誰だか分からない。

「ほら、この前みんなで合コンして。えっと、奥山です。奥山蒼生。製薬会社で働いてて、えーっと、一緒にデザートを頼んだ……」

必死な様子で手探りに情報を紡ぎ出す姿になんだか可愛く見えてしまった。

「あぁ、この前の時の。ごめんなさい、すぐに気がつかなくて」

「いや、良いんです。偶然にお会いしてびっくりしました。仕事帰りですか?」

この前合コンの時にはお互いこれといった話はせず、黙々と食べていた。だから私は彼に名前を言われても正直分からなかった。ただ、一生懸命な姿に想像を膨らませ思い出すことができた。

「はい。今日は定時で終わったのでベリヶ丘にご飯を食べに行こうかと思って」

「そうですか……」

「それじゃ」

私は彼に頭を下げ、離れようとしたところで呼び止められた。

「誰かと約束ですか?」

振り返ると少し見えた彼の目が真っ直ぐ私を見つめていた。

「いえ。今日はひとりで美味しいものでも食べようかと思って」

金曜にひとりだなんて今更だけど少し恥ずかしいが、正直に伝えた。すると彼は「それなら俺と行きませんか? 美味しいおすすめのお店があるんです」と言ってきた。なんだか耳元が赤くなっているし、一生懸命な姿に悪い印象はない。あの合コンも三橋製薬の人とだったから身元も分かっているので安心だ。
心配そうな彼に私は大きく頷いた。

「美味しいお店があるんですか? ご一緒してもよければお願いします」

すると彼はパッと先ほどよりも顔を上げた。すると隠れていた目が見え、切れ長の目に彫りの少し深い顔もあらわになった。けれど彼はまたそれを隠すようにパッと前髪を指で伸ばし目元を隠してしまった。
顔を出すのが恥ずかしいのかもしれない。でもパッと見た時、とても素敵だったように気がした。
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