Stayhere! 上司は××××で御曹司
 ななみは自分でも何を言っているのかわかっていなかった。頭の中がくらくらして、思っていることが、言葉になってもれた、そんな感じだった。
 編集長は、ちっ、と舌打ちした。
「…可愛すぎるな、くそ」
 え、とななみが思った瞬間、頭を抱え上げられ、唇をふさがれた。編集長の唇で。
 しばらく、唇は重ねられ、ゆっくりと離れていった。
 ななみは、ぽかんとして、間近にいる編集長の顔を見た。キスされた衝撃で、涙も止まった。
「ようやく泣き止んだな。目、冷やしとけよ。腫れるぞ」
 呆然として、ななみは頷くことすらできない。
「あと十五分もしたらライブ再開するから。聴いて行けよ。じゃあな」
 そう言って、編集長はガラ空きの会場をつっきってステージに向かって行く。アイマスクをつけながら。
 ソウが編集長で…その編集長に、キスされた?
 編集長の言葉どおり、ライブは再開されたが、ななみの頭には、まったくキングの曲は響かなかった。自分の身に何が起こったか、把握しようと何度も試みたが、大事すぎて、頭の中でぐるぐるするばかりだった。
 どうやってアパートにたどり着いたかも覚えていない。
 その夜。ななみは、当然のように眠れなかった。

「えっと…ななちゃん?それ、私のマグカップなんだけど…」
 会社で隣の席のこずえがおそるおそる、という感じで言った。
「マグ…ああっ、ごめんなさい!」
 編集部では、ほぼ全員が、自分用のマグカップを持っている。ななみは小花柄の白いカップなのに、今、手にしているのは、ブルーのこずえのカップだった。
 こずえは苦笑して、自分のカップを受け取り、ななみの小花柄のカップを差し出す。コーヒーが入れられてあった。
「あ、ありがとうございます…」
 こずえだって忙しいのに、と思うと申し訳なさでいっぱいになる。実は午前中の三時間の間に、他にもいろいろ、ななみはやらかしていた。コピー機を使えば、紙を詰まらせるし、パソコンは何をどうしたのか、何度もフリーズさせるし。まとめようとした資料は、こずえの別の作業用のものだったりした。
 こずえは言った。
「えーと、言葉は悪いけど…ななちゃん、ポンコツって感じよ?なんかあった?」
 ななみの顔がぱああっと赤くなる。
「いえ、何にもないです。はいっ、なんにも!」
 首を振って答える。本当の本当は、ぶちまけてしまいたい。
 マスクドキングのソウは編集長なんです!
 それだけでも編集部を揺るがす大事件だ。
 なのに。
 その編集長にキスされたんです!
 と、言うのは…言える、はずもなく。まともにできた事と言えば、昨日、編集長に言われた通りにむくんだ目を冷やしたことくらいだ。
 とにかく、昨日の出来事が、ななみの頭の中で何度もリピート再生されていて、それが止まることがない。
「青葉、昨日言った資料、できてるか」
 ななみは、編集長が近づいてきたので、身体がぴきっと固まった。編集長は午前中、遠方で打合せがあり、午後出社になっていた。こずえと話しているのを肩に感じるだけで、心臓がばくばくする。目が合ったら最後、顔から火をふいてしまいそうで、ひたすらパソコンを凝視しているフリをする。
 その後も、編集長と接触しそうになるとさりげなく避けて、終業時間まで過ごした。もともとななみは下っ端バイトなので、編集長からの直々の指示など、あまりない。他のライター達の雑用をしていたら、あっという間に一日が終わってしまう。
 お疲れ様でした、と皆に挨拶をして、編集部のドアを閉める時に、そっと編集長の方を伺った。あくびをかみ殺して資料を見ている。ななみは、姿を目にしただけで、胸がきゅうっと締め付けられる想いがした。
 見ているのがバレないよう、さっと廊下に出て行く。今日は、バーのバイトがある日だ。
「ななみ?なんか顔が赤いよ。熱がある?」
 今日は、かよもバイトに入っている日だった。客は少なく、二人でカウンターに並んでナプキンなどを折っていた。
「う、ううん。ちょっと寝不足なだけ」
 昨日、ライブの後にアパートに帰っても、かよは彼氏の智也の部屋に泊っていて、いなかった。それはちょっとだけななみの心を軽くした。ライブの、つまり編集長とのキスの後、かよに会ったら、ついしゃべってしまいそうだった。
 かよは、ななみがいかにマスクドキングのソウが好きだったか知っているし、編集長に恋心を抱き始めていたのも知っている。
 だから、話して聞かせるには、うってつけの相手なのだが、話してしまうと、なんだか全てが塵となって消えそう、とも思うのだ。ななみは、編集長がソウであることを、誰にも話したくなかった。何だか神様からもらった大事な秘密のような気がして、いつまでも心に抱いていたかった。
 それに「rock:of」の編集長がソウだということは、絶対知られてはいけないトップシークレットのはずだ。かよが軽々しく口にしないとは思うけれど、こればかりは「漏れてしまいました」では、すまされない。
 そこまで考えると、どうして、編集長は自分にソウであることをバラしたのか、という疑問が出てくる。火事騒ぎで仕方なく助けたとしても、他人の空似とかなんとか、いくらでもごまかせたはずだ。ななみだって、本人の口から聞くまでは、ソウが編集長だなんて、半信半疑だったのだ。
 はーっと、ななみはため息をついた。
 そこまで考えるだけでも、いっぱいいっぱいなのに、とどめにソウからキスをされてしまい、ななみは頭も身体もぐにゃぐにゃになってしまいそうだ。
 仕事で、バーのカウンターに立っている、というわずかな意識だけで、何とか正気でいられる。ドアベルが鳴り、お客様が入ってきた。ななみは条件反射で笑顔を作り、沸騰している胸の内をどうにか冷まそうとした。

「青葉、この後、北条を借りていいか」
 もう少しで終業時間という夕方、編集長がこずえに、そう声をかけた。
「はい。こっちの仕事はすんでますし。ななちゃん、急ぎの仕事、なかったよね」
「は、はい」
 ななみの声がうわずった。ここ二日ばかり、なんとか編集長と接触しないようにしていた。
「そうか。北条、山之内さんと逢うからつきあえないか。何か予定あるか」
「いえ、ないです…」
 こういう時、何か嘘をつけるタイプだったらいいのに、とななみは思った。
 薄手のコートを羽織って、編集長と一緒に会社を出る。山之内というのは、この所「rock:of」編集部でも話題のイラストレーター山之内マコの事だ。マニアックな人気があり、編集部でも人気が高く、「rock:of」のコラムのページで連載してもらおう、ということになった。今日が、その山之内との初顔合わせなのだ。
 社の近くのカフェで逢うことになっていて、そこに向かいながら編集長が言った。
「山之内さん、人見知りらしい。こういう場だと緊張する、って言ってたんだ。お前は年も近いから、相手もほっとするんじゃないかと思ってな」
 なるほど、和み要員か、とななみも納得した。人見知りの人が男性編集者と一対一で逢うのは確かにハードルが高いだろう。連載ともなれば、込み入った話もしなくてはいけない。話をスマートに進めたいという編集長の気持ちはわかる気がした。
 そして、そんな仕事の話をさらさらとする編集長の胸の内をななみは知りたくもあった。ドキドキしているのは自分だけなんだろうか、と思うと何だか悔しい気もしてくる。
 果たして、約束のカフェにやって来た山之内マコは、人見知りでも、なんでもなかった。逆にギャグを言ってこちらを笑わせるくらい、気さくな女子だった。ショートカットがよく似合っている。
「山之内さん、人見知りじゃあないですよね」
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