もう誰にも恋なんてしないと誓った
 そう言ってベントンが執務室を出ようとした時、邸の呼び鈴が鳴った。
 邸の中にまで聞こえる激しい雨音に紛れていたけれど、確かに鳴った。


 無意識だった。
 わたしはベントンの横をすり抜けて、玄関まで走った。

 
 びしょ濡れの若先生が迎え出た執事から大判のタオルを受け取って、髪を拭いているのが見えた。


「フレイザー先生!」

「あぁ、雷には間に合いました、よかったです。
 傘が全然役に立たなくて、濡らしてしまって申し訳な……」

「何がよかったのです!もしかして駅からここまで歩いて来られたのですか?」

「綺麗に舗装された石畳ですから。
 濡れているので気を付けないと滑るのですが、1時間も歩けばコツがわかりましたよ」


 信じられない……ハミルトンの駅では動きが取れない降客に毛布を貸し出して、朝まで過ごせるようにしてくれるのに。
 何でもないことのように笑っていらっしゃるけれど、2時間かけて歩いて来られたの?


 それに雷?今はまだ雷は鳴っていない。


「雷が何か……」

「シンシア様は雷が苦手だと伯爵様からお聞きしました。
 ご両親も使用人の方達も居られますし、私では頼りないですが、ひとりでも多い方が心強いかと」

「……」


 わたしが雷を怖がっているとでも、父は若先生に話したのだろうか。
 一体いくつの時の話なのか……それをこの方は今の22歳のわたしが、未だにそうだと?



 ……雷よりも怖いものがこの世にあることを、わたしは知っているのに。
 


 それでも。
 父の軽口を信じこんで、少しでも安心を、と無理を押して来てくださったことに悪い気がするはずもなく。
 かと言って、素直に嬉しいです、と言えないわたしはやはり可愛げがない。


 何をどう言えばいいのか、わからずに。
 とにかく先に身体を温めてくださいとお湯の準備をヘレンに頼んだ。



 びちゃびちゃと、若先生が動く度に水溜まりが廊下に出来た。

 ヘレンがメイドに廊下を拭くように言いつける。
 ベントンが食堂の暖炉に火を入れるように執事に命じる。
 口には出さないが、皆が安心して笑いたいのを堪えているように見えた。


 そしてわたしも、空腹だと気付いた。



 
 翌日は快晴だった。

 わたしは若先生にプロポーズされた。

 隣に立つのでもなく、真正面で跪かれるでもなく。

 
 書類の仕分けにふたりで取りかかる前だった。
 
 
「私は貴女と、人生をかけて信頼を育てていきたい。
 その信頼がいつか愛になれば、と思っています」

 
 そして続けられた言葉は。

 返事は急ぎません、いつまでも待ちます。


 その言葉に甘え、わたしが返事を返せたのは半年以上先だった。
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