婚前どころか、フリですが ~年下御曹司?と秘密の溺甘同居~
夏樹くんのことだから、もっと、こう、積極的に接近してくるのかもと思っていた。ところが全くそんな気配はなく、むしろ一定の距離を保たれている感じだ。紳士的、だよね、こういうところは。さっきも、手を出さない宣言してたし。

邪なことを考えていたのは私の方じゃん。夏樹くんをそんな目で見ていたなんて、恥ずかしい。ごめんね、夏樹くん。

「…? どうしました、小春さん」

いつの間にか見入っていたらしい。私の視線に気づいた夏樹くんが小首を傾げる。

「なんでもないんだけど…。夏樹くん、そんな格好でも端正な顔は変わんないなぁと思って」
「風呂に入ったからってふやけて顔は変わりませんよ」
「そうだね」

夏樹くんの真面目な返しに、私は吹き出した。そんな真顔で言うことじゃないよ、絶対。

「あの、1つ、お願い聞いてもらえますか」
「なに?」

視線が真っ直ぐかち合う。彼の顔色は平常だ。

「俺のこと名前で呼んでください。 外にいる時だけでもいいので、翔って」

そっか。たしかに、私たちは恋人を演じるんだもんね。苗字呼びはちょっと不自然かもね。私は彼の結婚拒否作戦に協力すると決めたから。

「分かった。 翔くん、でいい?」
「…はい、いいです。 すごく」

すごくいいんだ。ほんと、正直なんだから。てか、顔赤! 夏樹…翔くんでも照れたりするんだ。素直な翔くんは、ちょっと可愛い。

「…寝ますか」
「そうだね。そろそろ」

私は翔くんの隣の空いていた部屋を使わせてもらうことになった。シーツや布団はゲストルーム用に用意してあったけれどまだ使われていない新品だそう。ゲストルームがあるなんて、恐ろしい。

廊下に隣合った扉を前に、「おやすみ」と挨拶を交わす。寝る時に誰かにそう言ったのは、随分久しぶりに思えた。誰かがいるのって、安心するなぁ。
初めての場所だとかそういう不安はなくて、すぐに眠りについた。


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