繊細な早坂さんは楽しむことを知らない
「今は違うの?」
「秋也さんに出会って、ちょっとは変わりました。あの人は幸せになろうと努力するから。小さな幸せを見過ごさない人なんです」
「そうだね。そんな気がする」
「いいことがあっても、気づかなきゃ意味ないですよね?」
「猪川さんは、それに気づける人ですよね。私にそれができるのかなって考えちゃう」
「できますよ」

 意外にも、環生は優しい目を向けてくると、自信満々にそう言う。

「早坂さんにも、好きなものはありますよね? とびきり好きなものがある人を羨ましく思う人でも、必ず好きなことってあると思うんです。だけど、とびきり好きじゃないからわかりにくい」
「あたりまえのようにできる、自分の得意なものに気付けないのと同じで、わかりにくいんだよね」

 温美がそう言う。

「そう。それと同じで、とびきりいいことはなくても、いいと思うことはあるはずなんです。たとえば、秋也さんと一緒にいて、めちゃくちゃ楽しくはないけど、一人でいるよりは楽しいとか」

 うなずくのも失礼なたとえ話に、奈江は返事をためらう。

「まあ、いいと思うことがないなら、気づいてないだけだって言いたいんです。誰かの人生の一部として生きてると、見過ごすかもしれない」
「誰かの人生の一部……?」

 ふと浮かんだのは、母の顔だ。

 母のご機嫌うかがいばかりする奈江は、母の人生の一部を生きてきたのだろうか。
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