繊細な早坂さんは楽しむことを知らない
 奈江、と名前を呼ばれるのはまだ慣れない。だけど確実に、以前よりも今の方が、秋也の心の近くにいると勇気づけられる。

「伯母さんが大福一緒に食べようって」
「大福? それで来たのか?」

 おかしそうに笑いながら、キーホルダーから店の鍵を選び取り、秋也は裏口のドアを開ける。

「秋也さんも一緒に食べないかって。時間はある?」
「今からちょうど、休憩時間。すぐに行く? それなら、着替えてくるから、ちょっと待ってて」
「その前に、話があるの」

 そう言って、中へ入っていこうとする彼の背中を引き止める。

「大事な話?」

 ふしぎそうに振り返る秋也も、奈江が思い詰めた顔をしてることに気づいて、真顔になる。

「今すぐ……がいいよな。中で話そうか」

 秋也はすぐさま、奈江の背中に腕を回し、裏口からつながるキッチンへと入る。

 奈江をソファーに座らせ、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをグラスに注ぐ。そして、グラスをテーブルの上に置き、彼もまた奈江の隣に腰を下ろす。

「何かあった?」
「彼岸橋の近くにね、猪川さんっていうお宅があったって聞いたの。今は空き地になってる、あの交差点の角のところ」

 ああ……、と秋也は声にならない声を漏らし、グラスをつかむと、一気に飲み干す。

 そうして、うつむく彼の手に、奈江はそっと手を重ねる。拒絶されたらどうしよう。不安だったけれど、彼はしっかりと握り返してくれる。
< 166 / 172 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop