繊細な早坂さんは楽しむことを知らない
 秋也は手を伸ばしてくると、奈江の髪に指をうずめる。

「駅で、入ってくる電車に向かって歩き出した奈江を見たときはゾッとした。俺は大切な人を死なせる悪魔かもしれない。そんなことぐらいは考えたのかもな。気づいたら、奈江の前に腕を伸ばしてた。電車が停まって、奈江が俺を見た。助けられたんだ。そう気づいて、心底ホッとした」
「私、秋也さんを傷つけた?」
「傷つけてないさ」

 不安になっちゃいけない。秋也を不安にさせるから。

 わかってるのに、できないから、秋也は優しく包み込むように微笑むのだ。

「奈江があの日、あの場所で生きててくれた。そうして、俺に出会ってくれた。大事なことはそれだけだよ。生きててくれて、ありがとう。俺が思うのは、それだけなんだよ」
「秋也さん」

 奈江はたまらず両腕を伸ばし、秋也の背中を抱きしめる。

 大きくて、安心感を与えてくれる背中を抱き締めるには、奈江の手は小さすぎる。それでも、伝えなきゃとぎゅっと抱きしめる。

「秋也さんこそ、生まれてきてくれてありがとう」

 秋也がいてくれるから、前向きになれる。生きていられる。悪魔なんかじゃない。たくさんの人を救ってきた……、これからも救い続ける、猪川秋也という名の、ただひとりの人間だということを伝え続けていきたい。

「私も、秋也さんの支えになりたい」
「奈江……」

 秋也は眉をさげると、するりと髪をなで下ろし、そのまま抱きしめてくれる。

「もうずいぶん、支えになってるよ」
「もっと、支えていけると思うんです」
「どういう意味?」

 ふしぎそうにする秋也を見上げ、奈江は意気揚々と言う。

「人生には何回も転機があるそうなんです」
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