繊細な早坂さんは楽しむことを知らない
「こっち見てる?」
「ほら、あのスーツの人」
「スーツ?」

 向井が目で訴える方へ、奈江も顔を向ける。

 改札の横にはコンビニがある。その前に、スリムなスーツに袖を通す、スラッと背の高い男の人がいる。少し長めの黒髪をワックスで後ろに流していて、やけに垢抜けたサラリーマンに見える。

 その男の人がこちらに向かって手をあげたから、奈江は思わず口走る。

「猪川さん……っ」

 パッと向井がこちらを見たから、奈江は口をつぐむ。にやにやする彼が、声をひそめて言う。

「あの人、先輩の彼氏ですか? めちゃくちゃカッコいいじゃないですか」
「違うから」
「でも、あの人と予定があるんですよね。あ、こっちに来た。じゃあ、俺、帰りますね」

 向井はサッと奈江から離れると、こちらへ向かってくる秋也とすれ違うようにして改札へ消えていく。

 秋也はほんの少し、向井の方へ顔を向けたが、すぐに足早に近づいてくると、いつもと変わらない、人なつこい笑顔を見せる。

「おつかれ、早坂さん」
「あ……、おつかれさまです。あの、猪川さん、ですよね? 髪、染めたんですか?」
「秋になったしね、気分転換。おかしい?」

 秋也は前髪をかきあげる。作業着に茶髪だった彼とは見違えている。こんなにスタイルのいい人だったんだと驚きもある。

「おかしくは……ないです」

 むしろ、向井の言うように、カッコいい。でも、カッコいいなんて言えなくて、奈江は戸惑うしかできない。
< 74 / 172 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop