繊細な早坂さんは楽しむことを知らない
「そう、一緒に住んでるの、社長なんだ。彼、大学院卒業したばっかりだから、なかなか出ていってくれないんだよ」

 わざとらしく秋也は困り顔を見せる。実のところは、同居人をわずらわしく感じてもいないのだろう。

 奈江とは大違いだ。自分はなかなか誰かとは一緒に暮らせない。それがたとえ、血を分けた家族であっても。

「社長さん、お若いんですね」
「年下ではあるよ。まあ、俺が起業したのは在学中だし、あいつならなんてことなく務めるよ」
「大学生で起業ですか? 猪川さんもすごいですね」
「そう? うれしいね。早坂さんに褒めてもらえるなんて。頑張った甲斐があったよ」

 奈江の褒めなんて、大した価値はないだろう。そう思うけれど、秋也は純粋にうれしそうにしている。根が素直な人なのだろう。

「猪川さんは努力家なんですね。私も頑張らなきゃって思えます」
「人生はいつだってやり直せるよ。俺はそう思ってる。仕事で大変なことがあるなら、俺がいつでも話聞くよ」

 人生はやり直せる、か。そんな言葉はよく聞くけれど、やり直すための時間や労力を考えて、途方に暮れたことは何度もある。

 本当にやり直せるだろうか。兄ばかり大事にした母を忘れて、伯母のように達観した人生が、奈江にも送れるのだろうか。わからないから、奈江はずっと立ち止まっている。
< 80 / 172 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop