Runaway Love
「それは、杉崎への侮辱と取っていいんだな」

 後ろから、そう声が聞こえたかと思ったら、あたしの前に壁ができる。
「――早川」
 篠塚さんと、あたしの間に割って入ってきた早川の背を、驚いて見上げる。
 その表情は見えないが、口調は完全に怒っている。
「あ、おはようございますぅ、早川主任ー」
 そんなものは一切気にせず、篠塚さんは、いつも通り媚びた口調で挨拶をしてきた。
「は、早川」
 これ以上は、見世物になるだけだ。
 そう思い、早川の腕を引く。
 だが、早川は憤ったまま振り返った。

「杉崎、お前、今、完全に侮辱されたんだぞ。怒らねぇのかよ」

「――気にしてない。……騒ぎになったら、不利になるだけ」

「けどな――」

 不満を言いかけた早川は、言葉を切る。
 その不自然さに眉を寄せると、不意に左腕が引かれた。

「野口くん」

「ま、茉奈さん、大丈夫ですか」

 振り返ると、また寝坊したのか、来たばかりの野口くんが、あせったようにあたしを見下ろして言う。
「――何でもないわ」
 あたしは、彼の手をそっと外し、エレベーターへと足を向けた。
 これ以上、ここにいても、好き勝手言われるだけだ。
 篠塚さんに背を向け、一歩足を進めると、逃がさないとばかりに続けられた。

「いいなぁー、杉崎主任ってば。今度、藍香にも、《《いろいろ》》教えてくださいねぇ」

 強調された言葉の裏を取り、ささくれ立った心は、敏感に反応する。

 ――いい加減にしてよ!

 思わず怒鳴りそうになるが、唇を噛み、ふう、と、息を吐く。
 どんなに腹が立っても、ここは会社だ。
 騒ぎになれば、何を言われるか、わかったもんじゃない。
 自分に言い聞かせながら、彼女に背を向ける。

 ――けれど、あたしは、そう穏やかな人間でもないのだ。

 あたしは、思い出したように、勝ち誇ったような表情の篠塚さんを見やった。

「”いろいろ”の中身がわからないわ。――何を教えればいいか、教えてくれないかしら」

 そう言った瞬間、その場は、一瞬で静まり返った。
 凍り付いた彼女を置き去りに、あたしは、早足で、ちょうど到着したエレベーターに乗り込む。
 すると、扉が閉まる直前に、野口くんが飛び込んできた。
「――おはよう、今日も寝坊?」
「お、おはようございます……って、朝から、何て状況になってるんですかっ……!」
 あたしは、眉を下げた彼を見上げて、苦笑いで返した。
「そんなの、あたしが知りたいわよ」
 そう言うと、壁に背を預ける。
「――……良く思われてないのは慣れてるから、気にしないで」
「ま、茉奈さん――」
「――会社よ、《《野口くん》》」
「あ、す、すみません。……杉崎主任……」
 キツくなってしまった口調に、ほんの少し後悔する。
 けれど、今は、それをフォローできる精神状態ではなかった。

 ――ごめん、野口くん。

 完全に八つ当たりになってしまい、あたしは、心の中で謝った。
< 92 / 382 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop