曇りのち晴れ、SWAN航空幸せ行き〜奥様はエリートパイロットともう一度愛しあう〜

第五話

「希空。目が覚めたか」

 声をかけられて、重いまぶたをゆっくり開ける。
 焦点が合ってくると、理人が覗き込んでいた。
 彼が医務室だと教えてくれる。
 頬に衝撃を受けて、床にへたりこんだら立てなくなったことを思い出した。

「医者の診察だと過度のストレスだそうだ」

 視界が滲み、涙がすうっと落ちていくのを感じる。鎮痛な表情を浮かべた理人が掬い取ってくれた。

「クマができてる。眠れてないのか」

 問われて、こくんと頷くと抱きしめられる。

「俺の対応が遅くなって希空を苦しめてしまった、すまない……!」 

 辛そうに謝られて、希空も理人にしがみついた。

「私……」

 あとは声にならない。
 女性達の憧れの人を奪ったのだ、密かにロッカー室やトイレで囲まれるといったことは想像していたし、覚悟もしていた。
 けれど『職務を蔑ろにしている』と糾弾されるとは思ってもみなかった。

 リーダーに言われたときは、自分の慢心が招いたことだと、懸命に信頼を取り戻そうと努力を重ねた。
 けれど、挽回しようにも給水に回れば『水漏れがあった』、荷物を牽引すれば『トランクが壊れていた』と苦情が出る。

 どんなに細心の注意を重ねても、違う仕事をしてもだ。
 流石に上司もおかしいと思い、希空について確認してくれるようになった。
 しかし手順通りに行ない、上司が合格点を出してくれているのに、クレームが入る。

 同僚達は『悪質な嫌がらせだ』と憤慨してくれたが、事態は一向に改善しない。
 八方塞がりだったが、好きな仕事だし真摯に働くしかない。

 しかし降り積もってくる悪意は徐々に彼女の心身に影響を及ぼしており、こらえきれず倒れてしまった。
 なにより理人に迷惑をかけたのが申し訳ない。

「ごめんなさい、理人さんとみなさんの関係を険悪にさせてしまった」

 このまま理人が空を飛べなくなったら取り返しがつかなくなる。
 休暇以外での待機となれば、パイロットとしての勘を取り戻すのにどれくらいかかるのだろう。下手すると、彼が積み上げてきた訓練や経験が無駄になってしまう。

 だが、理人はあっさりと言ってのけた。

「空は世界中に繋がってる。SWANで働けなければ他の飛行機会社に入るさ」

 希空の顔が歪んだ。

「だめ! キャリアが」

 彼女に言わすまいと、理人が推し被せるように言葉を重ねる。

「希空が傍にいてくれればいい」

 理人の真剣な眼差しに、また希空の瞳から涙が溢れる。彼女の涙を唇で吸い取りながら、理人は乞うた。

「こんな時に言うのもなんだけど、結婚しよう。俺に君を守らせてほしい」

 男の指が小さな箱の包装を解いていく。
 ……くたびれた包装紙は持ち歩いてくれていたからなのだろう、彼の気持ちが嬉しい。 
 箱が開くと、自分の親指の爪ほどの大きなダイヤモンドがついた指輪が現れた。

「綺麗……」 

 医務室の味気ない蛍光灯の下ですら、きらきらと輝いていて、希空はうっとりと呟く。
 理人はいたずらっ子のような表情になった。

「大きいだろ? これは希空を想う、俺の気持ちのサイズなんだ」

 彼女は思わず笑いそうになった。理人も嬉しそうだ。

「しかも希空の薬指仕様で『RtoN』と彫っちゃってる。返品は不可だからな」

 理人に愛されている。
 同僚達は希空のことをわかってくれている。
 彼とこれからの人生を送ることに、なんの不安があるだろう。

 こくん、と頷きかけて希空は不安な表情になった。

「私なんかでいいの? また、こんなことが起こったら……!」

「俺が希空じゃなきゃだめなんだ。それにこんなことは二度と、誰にもさせない」

 力強く宣言した後、理人は希空を抱きしめる。

 しかし、希空は震えながら、自分でも聞き取りにくいほどの音量で囁いた。

「……私が仕事を辞めれば。丸くおさまるのかな……」

 禁断の言葉。
 口に出せば現実味を帯びて、撤回が難しくなる。
 俯いていると、優しく手を添えられて顔を上げされられた。

「希空が辞める必要はない。グラハンの仕事が好きなんだろう?」

 理人は彼女の顔を覗き込んだ。

「好き。理人さんと付き合ってから、理人さんの乗る飛行機を飛ばせる手伝いができると思ってから、もっと好きになった」

「希空……!」

 再び抱きしめられながら希空は思う。

 でも、それは自分のわがままだ。
 好きな人から空を奪っておいて、自分一人だけのうのうと働くわけにはいかない。


 ◇■◇ ◇■◇

 決心した希空が翌日に上司に辞表を提出したところ、なぜか血相を変えたリーダーはじめ同僚達から押し留められた。

 しかも、リーダーは希空へのバッシングをきっかけに、大量のパイロットの連絡先をゲットしていた。

『雲晴希空がいじめに耐えかねて辞めたがっている!』

 衝撃情報を、知っている限りのパイロットにリークした。

『空の女神』が空港から去るという噂は一瞬でパイロット達の間を駆け巡り、彼らからは怒涛のごとく反応が寄せられた。

『辞めないでほしい』

『雲晴さんにプッシュしてもらったが、クレームのような振動は感じたことはない』

『自分の操縦する飛行機を雲晴希空氏にプッシュしてもらい、クレームが事実か検証したい』

『自分は験を担ぐタイプではないが、雲晴さんにプッシュしてもらうと到着地が快晴であると、複数のパイロットがジンクスにしているようだ』

『パイロットにとって大事な名前だから、結婚しても旧姓で仕事をしてほしい、むしろ貴重な名字を継続させるためにも彼女の恋人が婿養子に入るべき』


 ……さまざまな内容の嘆願書が希空の所属している会社へ寄せられた。

 そのニュースはSWANにも流れ、流石に調査委員会を含む上層部が調査に本腰を入れ始める。

 しかし委員会が『クレームを申し出た客』に聴取するも『クレームの通りだ』との回答しか得られなかった。
 悪いことに、その便に勤務していたCAも『振動を感じた』と、数名が申し出た。

 しかし、これに複数のパイロットが反発。
『自分が操縦したフライトである』と申し出たのである。

 曰く、コクピットが感知しない揺れをキャビンが感じるとは、どういう構造かと。
 一部クルーは『勘違いだった』と申告を取り下げ、クレーム内容の信憑性が一気に低くなった。

 いたちごっこが始まった。

 希空がパイロットらからの嘆願により、プッシュに復帰する。
 途端、またクレームが寄せられてしまう。

 しかし幸運なことに、新たなクレーム客が乗っていた飛行機には、覆面調査員が搭乗していた。
 調査員自ら「クレームのような事象はなかった」と証言してくれた。
 さらには「今回のプッシュはとても素晴らしい」という評価を下したのである。

 そんな中、希空と理人はひっそりと入籍した。

 理人は早番と遅番であるが、二十四時間稼働している空港勤務の希空は早・中・夜の三交替制である。
 理人が眠っているときに希空が出勤していくこともあるし、その逆もある。
 ……子供が生まれた時には中番だけにさせてもらおうと話しているが、それはもう少し未来の話だ。

 新婚旅行はオフシーズンに出かけることにして、二人はまずは休みの日に一緒に出掛けては家具を買い集め、愛の巣を整えていくことにした。

 小さいところではペアのマグカップから、花を活けるフラワーベース。
 大きいところでは、カーテンやソファなど。
 けれど、あらゆることを自分だけで決めるのではなく、相手に相談してああでもない、こうでもないと話しあうのは楽しい。

「あー! ひとつ決めると、今までのインテリアのプランがご破算になるー」

 希空が悲鳴をあげてみせるが、笑っている。

「そうだな」

 妻を抱きしめる理人も笑っている。

 少しずつ、二人の家ができあがっていく。 

 ……結婚式は海外で挙げるか、内輪だけにとどめようと考えていた二人は、披露宴は行わない方向で話し合っていた。

 しかし、理人の会社の上層部が横槍を入れてくる。
 入籍してから数週間後、新居にSWANから封筒が届いた。

「会社から、なんて?」

 希空が二人分のコーヒカップを運びながら尋ねる。
 理人は読み終わるや、手紙をぐしゃぐしゃにした。

「俺達に、SWAN系列のホテルで披露宴をしろと。ふざけるな!」

 曰く。
『一連の出来事について、社として雲晴希空氏に謝罪の意を表したい。オーナーの一柳氏には、問題はなかったと機長より説明してほしい』

 理人が御曹司であることを都合よく思い出したのだろう、おもねろうとしているのが露骨だった。

「希空をうつ病一歩手前まで追いやった件について、これで手を打てだと?」

 犯人はわからず仕舞い。
 あの日、希空を罵倒していた女性達や虚偽の申告をしたクルーは誰一人として処罰もされずに、悠々と働いている。

 苦々しく告げた理人は、即刻会社に電話をして断ろうとした。けれど希空がそっと夫の腕を押さえる。

「受けようよ」
「だが」
「これ以上、理人さんと会社との亀裂を深めたくない」

 希空が訴え、理人が折れた形となった。

 五月五日。
 SWANホテルで開催された雲晴希空と一柳理人の結婚披露宴。
 協力会社も呼ばれ、あからさまにSWANグループの連携を深めるものとして利用された。
 まるで会社の創業パーティであるかのようなものものしさに、希空はひきつった。

 理人は想像ついていたのだろう。
 おそらく自分をフォローしてくれるために、片時も離れないでいてくれている。
 だが、二人の高砂席に入れ替わり立ち替わり上層部がくるものだから、ミカや希空の同僚とは、ろくに話もできなかった。

 希空はとっくに後悔していたが、嫌がる理人を巻き込んだのは自分。
 理人の前で根を上げたら身勝手すぎる。なので、頑張ってにこにこしていた。

「無理しなくていいからな。辛くなったら言えよ?」
「うん」

 そんな彼女を気遣う理人に、心からの微笑みを向ける希空。

 二人はどこから見ても相思相愛のカップルだった。
 会社主導の豪華な披露宴。
 SWAN専属の一流デザイナーが希空の為だけに考えたウエディングドレス。 
 機長でイケメンのエリートな夫。

 なによりもボディラインをあらわにした希空は、花嫁という立場を差し引いても列席者の誰よりも美しく、エレガントだった。
 恵まれた女。

 希空の心情など知るよしもない女性達は、セレブ妻の仲間入りを果たした希空を、嫉妬や憎悪の目で睨んだ。
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