あなたが居なくなった後 ~シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました~
「そんな反応してくれるなんて、嬉しいな」
「ち、違うの……ごめんなさい」
「謝ることはないよ。俺のことを優香ちゃんが少しでも気にしてくれるようになったのが、ただ嬉しいだけなんだから」

 小さなキッチンの狭いシンクを見下ろして、優香は必死で呼吸を整えようとする。今すぐ気持ちを落ち着けないと、取り返しのつかないことになる。そんな気がした。
 それなのに、顔中に帯びた熱はなかなか引きそうもない。冷静になろうとすればするほど、宏樹の言葉が頭の中を反芻する。

「前にも言ったけど、ずっと好きだった」

 背後から伸びてきた腕に優香の上半身が包まれる。後ろから抱き締められて感じる、宏樹の体温。振りほどいて、今すぐ離れなきゃいけないと、頭では分かっている。宏樹も無理強いするような強さで拘束してきている訳じゃない。なのに、優香はその場から少しも動けないでいた。自分でも、どうして逃げないのかと不思議だった。
 今、自分のことを優しく抱きしめているのは夫の大輝じゃなく、その弟だということが分かっているはずなのに。

 宏樹の吐いた吐息が、優香の首筋に掛かる。さらに熱をもって真っ赤になった細い首に、宏樹の唇がそっと触れる感触。耳元で囁かれる「愛してる」の言葉に、優香はその場から完全に動けなくなる。

 耳のすぐ真横から聞こえてくる甘い言葉に、優香の瞳から涙が零れ落ちていく。同じように優香の欲する言葉を囁いてくれていた夫は、もうこの世にはいない。

「大輝が、いないの……もう、どこにもいないの」
「……うん」
「私、ずっと心細くて……陽太も、可哀そうで……」
「うん、そうだね」

 顔を覆い隠していた両手の指間から、涙の雫が滴り落ちていく。こんなに泣いたのは、告別式以来だ。陽太の前では弱音は吐けないと、ずっと我慢し続けていた。平気なフリをし続けていれば、いつか本当に平気になるのだと信じていたけれど、いつまでも辛いままだった。

 宏樹は優香の肩に手を触れて、そっとその身体の向きを変える。そして、改めて正面から優香のことを抱き締め直した。片腕で身体を包み込み、もう片方の手では優香の髪をゆっくりと撫でる。まるで幼い子供を宥めるかのように、優しく穏やかに。

「ごめんね、なんか私、情けないね」
「そんなことないよ。――今日はもう上がってくれていいよ。いろいろと疲れただろうし」

 送って行こうかと声を掛ける宏樹へ、優香は黙って首を横に振る。一旦家に帰って、この泣き腫らした眼を冷やしてからでないと、保育園へお迎えに行けそうもない。
 心配で見てられないとビルのエントランスまで見送りに出て来た宏樹には、照れ笑いを浮かべながら手を振ってみせる。沢山泣いたおかげだろうか、以前よりも随分と気持ちが楽になっている気がする。
< 24 / 46 >

この作品をシェア

pagetop