疫病神の恋
突然住み慣れた家を失っても日常は止まってくれない。
その日にできることをして、生きていくしかない。
「ただいま帰りました」
スーツ姿の悠生が、嬉しそうにひょこりと顔を覗かせる。
「あ、おかえりなさい。すみません、キッチンお借りしてます」
「大丈夫です。何でも自由に使ってくださいって言ったじゃないですか。……というか、すごいご馳走ですね!これ全部幸さんが作ったんですか?」
「ご馳走だなんて、大層なものではないです。こんなことしかできませんが、よかったら召しあがってください」
火事から一晩経ち、完全に鎮火されていた。今日は休みをもらい、警察官の立ち合いのもとアパートからまだ使えそうなものを回収してきた。
これから引っ越し費用もかかるのに、あれこれと新調することはできない。
燃えずに残った、ぐしゃぐしゃに濡れて煙の臭いが染みついた衣類だって、洗濯すればまだ着られる。
大切な写真と、テディベアは救ってもらえた。
それさえあれば大丈夫。
いや、そんなことよりも——
「あの……なんで急に下の名前で…?」
「せっかく素敵な名前なのに、呼ばないともったいないじゃないですか」
にっこりと微笑みかけられると、反論する気も失せてしまう。
キッチンの片づけを始めようとすると、手を洗って部屋着に着替えた悠生が隣にきて顔を覗き込んできた。
「片付けは後で僕がやりますから、幸さんも座ってください」
「え、でも…」
「一緒にいるのに別々に食べるなんて寂しいです」
戸惑いながらも、悠生の向かいに腰を下ろして、二人で「いただきます」と手を合わせた。
「こんなに沢山、作るの大変じゃなかったですか?」
「いえ、簡単なものばかりで申し訳ないくらいです」
用事の帰りにスーパーに寄った。いつもの癖で、つい値引きシールがついているものを中心に買い物してしまった。
お世話になっている人に振舞うのに失敗したなと気付いたのは、買い物を終えたあとだった。
豚の生姜焼き、ナスの煮びたし、ほうれん草の胡麻和え、人参と大根のなます、お味噌汁。
きっとお洒落なお店に行き慣れているであろう彼には、いささか地味過ぎたかもしれない。
幸の心配をよそに、本当に気持ちのいい食べっぷりだ。勢いよく頬張っているのに食べ方が汚いわけではなく、所作が綺麗だなと感じた。
「この生姜焼き美味いです!おひたしなんていつぶりだろ。はぁ…、五臓六腑に染み渡るってこのことですね」
味噌汁を啜り感嘆の声を漏らす悠生を見て、思わず笑ってしまった。
「ふふっ、褒めすぎです。そんなに急いで食べなくも、誰も取りませんよ」
自分が作ったものを美味しいと食べてもらえることが、嬉しくてくすぐったい。
食卓が楽しいなんて感覚は、一体いつぶりだろう。
ふと顔を上げると、悠生がぽかんとした表情で幸を見ていた。
「どうかしましたか?もしかして、味付けが薄かったですか?」
真顔で、じっと見つめられる。
「笑ってる顔、初めて見た——。すごく可愛いです。もっと笑えばいいのに」
「っ…!や、やめてください。そういうことを言われるの、困ります」
言う方は慣れているのかもしれない。けれど幸の方は全く慣れていない。
じわじわと顔に熱が溜まってくる自覚はあるが、防ぐことができない。
赤面するのを抑えようとすればするほど焦ってしまい、変な汗まで浮かんできた。
恥ずかしさが込み上げてきて、睨むように彼の顔を見ると
「困ったな——もっと困らせたくなる…」
と、彼自身も困っているように眉尻を下げながらつぶやいた。
幸を射抜く視線に、はちみつみたいにとろりと滴るような甘さが含まれている気がする。そんなのは全部気のせいに違いないのに。
ゆっくりと彼の右手が伸ばされる。幸の左頬あたりに、大きな手のひらがそっと近づいてくる。
何も言えずに見つめ合ったまま固まっていると、悠生の電話から着信を知らせる音が流れた。
「……すみません、ちょっと部屋で話してきます。あ、まだ食べるのでこのままにしていてください」
自室に向かう悠生の背中を見届けてから、詰めていた息を吐きだした。
どこまでが冗談なのかわからない——なんて、自惚れてしまう自分にもため息が出る。
好きになってはいけないし、好きになられてもいけない。
あれでも、どうして好きになってはいけないんだっけ。
そこまで考えて振出しに戻る。
彼には、幸せになってもらいたい。優しい、いい人だから。
幸が疫病神であるかもしれない、という呪いが消えてくれない限り、誰も好きになってはいけない。
じゃあ、どうすれば幸が疫病神ではないと思えるのだろう。
そうである可能性なら沢山話せるのに、そうではないと証明する方法が思いつかない。
先のことを考えると、出口の存在しないトンネルに立たされている気分になる。
その日にできることをして、生きていくしかない。
「ただいま帰りました」
スーツ姿の悠生が、嬉しそうにひょこりと顔を覗かせる。
「あ、おかえりなさい。すみません、キッチンお借りしてます」
「大丈夫です。何でも自由に使ってくださいって言ったじゃないですか。……というか、すごいご馳走ですね!これ全部幸さんが作ったんですか?」
「ご馳走だなんて、大層なものではないです。こんなことしかできませんが、よかったら召しあがってください」
火事から一晩経ち、完全に鎮火されていた。今日は休みをもらい、警察官の立ち合いのもとアパートからまだ使えそうなものを回収してきた。
これから引っ越し費用もかかるのに、あれこれと新調することはできない。
燃えずに残った、ぐしゃぐしゃに濡れて煙の臭いが染みついた衣類だって、洗濯すればまだ着られる。
大切な写真と、テディベアは救ってもらえた。
それさえあれば大丈夫。
いや、そんなことよりも——
「あの……なんで急に下の名前で…?」
「せっかく素敵な名前なのに、呼ばないともったいないじゃないですか」
にっこりと微笑みかけられると、反論する気も失せてしまう。
キッチンの片づけを始めようとすると、手を洗って部屋着に着替えた悠生が隣にきて顔を覗き込んできた。
「片付けは後で僕がやりますから、幸さんも座ってください」
「え、でも…」
「一緒にいるのに別々に食べるなんて寂しいです」
戸惑いながらも、悠生の向かいに腰を下ろして、二人で「いただきます」と手を合わせた。
「こんなに沢山、作るの大変じゃなかったですか?」
「いえ、簡単なものばかりで申し訳ないくらいです」
用事の帰りにスーパーに寄った。いつもの癖で、つい値引きシールがついているものを中心に買い物してしまった。
お世話になっている人に振舞うのに失敗したなと気付いたのは、買い物を終えたあとだった。
豚の生姜焼き、ナスの煮びたし、ほうれん草の胡麻和え、人参と大根のなます、お味噌汁。
きっとお洒落なお店に行き慣れているであろう彼には、いささか地味過ぎたかもしれない。
幸の心配をよそに、本当に気持ちのいい食べっぷりだ。勢いよく頬張っているのに食べ方が汚いわけではなく、所作が綺麗だなと感じた。
「この生姜焼き美味いです!おひたしなんていつぶりだろ。はぁ…、五臓六腑に染み渡るってこのことですね」
味噌汁を啜り感嘆の声を漏らす悠生を見て、思わず笑ってしまった。
「ふふっ、褒めすぎです。そんなに急いで食べなくも、誰も取りませんよ」
自分が作ったものを美味しいと食べてもらえることが、嬉しくてくすぐったい。
食卓が楽しいなんて感覚は、一体いつぶりだろう。
ふと顔を上げると、悠生がぽかんとした表情で幸を見ていた。
「どうかしましたか?もしかして、味付けが薄かったですか?」
真顔で、じっと見つめられる。
「笑ってる顔、初めて見た——。すごく可愛いです。もっと笑えばいいのに」
「っ…!や、やめてください。そういうことを言われるの、困ります」
言う方は慣れているのかもしれない。けれど幸の方は全く慣れていない。
じわじわと顔に熱が溜まってくる自覚はあるが、防ぐことができない。
赤面するのを抑えようとすればするほど焦ってしまい、変な汗まで浮かんできた。
恥ずかしさが込み上げてきて、睨むように彼の顔を見ると
「困ったな——もっと困らせたくなる…」
と、彼自身も困っているように眉尻を下げながらつぶやいた。
幸を射抜く視線に、はちみつみたいにとろりと滴るような甘さが含まれている気がする。そんなのは全部気のせいに違いないのに。
ゆっくりと彼の右手が伸ばされる。幸の左頬あたりに、大きな手のひらがそっと近づいてくる。
何も言えずに見つめ合ったまま固まっていると、悠生の電話から着信を知らせる音が流れた。
「……すみません、ちょっと部屋で話してきます。あ、まだ食べるのでこのままにしていてください」
自室に向かう悠生の背中を見届けてから、詰めていた息を吐きだした。
どこまでが冗談なのかわからない——なんて、自惚れてしまう自分にもため息が出る。
好きになってはいけないし、好きになられてもいけない。
あれでも、どうして好きになってはいけないんだっけ。
そこまで考えて振出しに戻る。
彼には、幸せになってもらいたい。優しい、いい人だから。
幸が疫病神であるかもしれない、という呪いが消えてくれない限り、誰も好きになってはいけない。
じゃあ、どうすれば幸が疫病神ではないと思えるのだろう。
そうである可能性なら沢山話せるのに、そうではないと証明する方法が思いつかない。
先のことを考えると、出口の存在しないトンネルに立たされている気分になる。