人魚の鼓動はあなたに捧ぐ





 穏やかな風が吹き、波の音がきこえる。

 外に出ると、この建物は高台にあり、崖下には砂浜と海が広がっていることがわかった。

 崖の反対側にはゆるやかな坂道の先に、ぽつぽつと古い家屋が見える。

 ──平和なところ。

 サエキさんの表現がぴったりな風景だと思った。

 坂道を下って、家の前を通り過ぎようとしたとき。


「おや、こんにちは」


 挨拶がきこえて、わたしは声の方へ振り向いて──それから、思わずびくりとからだが跳ねた。

 声の主は、(ほが)らかな顔つきのおじいさんだった。

 それだけなら驚くことなんて何もないのだけれど、なにしろおじいさんの服は、ひどく汚れていた。

 元は白かったであろうシャツは、上からバケツをひっくり返したかのように、赤黒い色がついている。

 その色はまるで乾いた血液みたいで──言及せずにはいられなかった。


「こ、こんにちは……あの、その……大丈夫ですか?」

「はぁ、なんのことかな?」

「怪我を、されてたりは……」

「いやぁ、どこもしていないよ」

「……その、お洋服、どうしてそんな……」

「服?」


 おじいさんは首をかしげながら自分の服に目をやる。

 わたしは少し緊張しながら、おじいさんからの返事を待った。


「……服が、どうかしたかい?」


 けれどわたしの心配をよそに、おじいさんは心の底から不思議そうにするだけだった。

 そんな反応が返ってくるのは、服がそうやって汚れているのはおかしいことじゃないということだろうか。


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