桜花彩麗伝
     ◇



 芙蓉は桜花殿を(おとな)っていた。
 帆珠のことを王に密告してから日が経ったが、彼が蕭家の断罪に乗り出す気配は一向にない。
 見込みちがいを嘆くようにやや気色(けしき)ばみながら、広大な美しい禁苑(きんえん)で春蘭と顔を合わせた。

「おいおい、どの(ツラ)下げて来たんだよ」

 露骨(ろこつ)に嫌悪感を滲ませた櫂秦が牽制(けんせい)すべく前に出る。
 紫苑からも非難じみた眼差しを突き刺されるが、芙蓉は怯まなかった。

「わたしは貴妃さまに話があって来たの。あなたたちに用はないわ」

「偉っそうに……。いい気になってるとそのうち痛い目見るぞ」

「────櫂秦、大丈夫だから」

 春蘭はそう言うと、毅然と芙蓉を見据える。
 彼女は不遜(ふそん)な態度ではあったが、以前の叱責(しっせき)が響いたのか、軽率に礼節(れいせつ)を欠くことはなかった。
 粛々(しゅくしゅく)と春蘭に一礼してみせる。

「……それで、わたしに何の用かしら」

「淑妃さまのご懐妊(かいにん)についてはお聞き及びでしょう。実は、それには裏があるんです。ご懐妊が判明する前、夜な夜な宮殿を抜け出していたのですよ」

 得意気な笑みで言を紡がれ、三人はそれぞれ意外に思った。彼女の托卵(たくらん)疑惑を芙蓉も悟っているとは。
 しかし、それを表に出さないよう努め、春蘭は咎めるように言う。

「言葉に気をつけて。滅多なことを口にするものじゃないわ」

 それを受け、芙蓉の顔から笑みが消える。
 白けたような呆れたような面持ちになり、わざとらしく嘆息した。

「……そうやっていつも善人ぶるから、お嬢さまは足をすくわれるんですよ」

「何ですって……?」

「だって、そうでしょう。他人のよいところしか見ないで、誰のことも何事も信じようとして。そんなの美点ではなく、弱点にほかなりません」

 だからこそ、腹黒く邪智(じゃち)深い者に簡単につけ込まれる。裏切られるまで、その思惑に気づくこともできない。

「それの何が悪い? 他人を妬み、誰も信じられない方がよほど哀れだ」

 憤りを滲ませたような静かな声色で、紫苑が()めつける。

「おまえもとんだ恩知らずだよな。そんな春蘭の優しさに救われたんじゃねぇのかよ」

 続けて櫂秦に毒づかれ、芙蓉は思わず嘲るように笑った。
 猜疑心(さいぎしん)に満ちた、濁った双眸(そうぼう)で春蘭を捉える。

「上の者は決して、下の者に等しい心で寄り添うことなんてできない。 “優しさ”なんて、ただの気まぐれなの」

「そんなこと────」

 決して、ない。
 少なくとも春蘭は彼女らを(さげす)んだり見下したりしたこともなければ、自身を誇示したり(おご)ったりしたこともない。
 特に芙蓉のことは、友人やあるいは姉妹のように大切に思っていたはずであった。
 無意識のうちに自尊心を傷つけ、妬心(としん)を煽り、(そね)まれるに至ったようだ。
 彼女の恨みを買っていたことが明確に示され、衝撃を通り越して悲しみすら覚える。
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