桜花彩麗伝

 思わずといった具合に帆珠は笑った。
 身も心も既に空っぽでくたびれていたが、その分だけ清々しくもあった。

「主上」

 煌凌は伏せていた目を上げ、素直に顔をもたげる。
 帆珠はいつになく純真な笑みをたたえた。

「わたしはずっと、このときを待っていました」

 毒気の抜けたような声色は朗々(ろうろう)と澄んでいながら、儚い響きで空気を揺らす。
 ゆっくりと寝台(しんだい)から下り、彼のもとへ歩み寄る。

「やっと……わたしを見てくださった」

 蕭家の令嬢でもなく、容燕の娘でもなく、帆珠というひとりの女人(にょにん)として彼の目に映りたかった。
 愛される価値のある人間であると認めて欲しかった。
 求めていたのは優しい眼差しだけであったのに、それが叶うことはいまに至るまで一度もなかった。

 蝶よ花よと育てられ、何不自由なく生きてきた。
 欲しいものは何でも手に入り、望めば何事も実現した。
 それは、蕭家の娘であったから────生まれて初めて心惹かれ、求めた彼はしかし、だからこそ得られなかった。
 (いな)、彼は確かに以前言っていたことがある。自分を拒むのは、それが理由ではないと。

 “蕭家の娘であること”だけが、自分の価値であった。
 それをなくしてはほかに何も残らない。最後まで矜恃(きょうじ)と自尊心を捨てられなかったのはそのせいである。
 しかし、短い人生は必ずしも不幸というわけではなかった。
 ほんの少しだけ……彼との出会い方がちがえば。もう少しだけ早く出会えていれば。

 周囲の誰しもに大切に扱われることが当たり前で、気の大きくなっていた帆珠は苛烈(かれつ)でわがままな分だけ不器用であった。
 意に染まない相手のことはとことん恨み、傷つける以外に自身を守る(すべ)を知らなかった。
 初めて己を(かえり)みた帆珠は後悔した。過ちを悟るのがあまりにも遅すぎた。

「そなたの置かれた立場は余も理解している。だが……そなたの仕出かしたことを許容する理由にはならぬ」

「ええ、分かっておりますわ。同情も赦免(しゃめん)も求めてなんかいない。わたくしは罪を悔いたわけじゃありませんもの」

 過ちはあれど、罪などない。
 すべては自身と蕭家のために行ったことで、家門に忠義を尽くしたという誇るべき事実である。
 どこか吹っ切れたような帆珠は、少しの後ろめたさも感じさせない、明朗(めいろう)で優雅な所作を(もっ)て毒薬入りの器を手に取った。

「‎どうか、わたくしがあの世へ行くまで見届けてくださいませ。最期の姿をその目に焼きつけてさしあげますわ」

 笑みさえたたえた帆珠は、一瞬の躊躇もなく器に口をつける。
 流し込むように飲み干し、空になったそれを床に落とす。甲高い音を立て、粉々に砕けた。

 ────すべては蕭家のため。
 私情を優先してしまったこともあったが、意に沿わない容燕の命令も、そう信じることで余さず受け入れてきた。
 父は帆珠の“心臓”であった。
 その(つら)汚しになる前に、(いさぎよ)く幕を引かなければ。懺悔(ざんげ)も泣き言も噛み潰し、誇り高く散るのだ。

 たたらを踏んだ帆珠は、破片の散った床に膝をついた────。
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