桜花彩麗伝
◇
戸部へ戻った淵秀と別れ、春蘭は紫苑や櫂秦とともに後宮へ戻る道を歩いていた。
紫苑はつい硬い表情で、忙しなく周囲に視線を振り向ける。ここは容燕の執務室に近い。
宮廷は果てしないほど広い。紫苑の活動範囲が主に後宮であったこともあり、これまでは彼と出くわすのをどうにか避けることができていた。
しかし、いまは妙に胸騒ぎがする。
角を曲がった瞬間、先から何者かが歩いてくるのを認めた。
果たして、ほかならぬ容燕であった。紫苑は胸騒ぎの的中を自覚する。
(……最悪だ)
内心で嘆きはしたが、頭はまだ冷静であった。
しかし、身体はその場に縫いつけられたかのごとく硬直してしまう。
────やや骨張った細身の男。白髪混じりの長髪と神経質そうな眼差し。顎にたくわえた髭。
少しばかり老いたように感じられるが、最後に見た折とほとんど変わらない姿である。
容燕もまた、紫苑を認めた。視線が交わり、驚愕に目を見開く。
「そなた……」
紫苑の瞳が怯んだように揺れる。
気づかれた、と思わずあとずさったが、容燕は逆に半歩踏み出した。
「碧依────」
慈しむように手を伸ばす。
先ほど執務室にいた“碧依”は、酔いの見せた幻であると自覚していた。
それでも縋ってしまうほど、容燕は有能な長子の存在を求めていた。
目の前の男は彼の面影を兼ね備えている。背丈は何寸も伸びているが、聡そうな眼差しは変わらない。
「……碧依? って、何か聞き覚えあるような」
「確か、消息不明の蕭家の長男って話だったはず……」
櫂秦と春蘭は困惑混じりに囁き合った。榮瑶が以前、そんな話をしていた覚えがある。
紫苑がその“碧依”であるとでも言うのだろうか。
ふたりして戸惑いと怪訝の面持ちで彼らを見比べた。
「…………」
紫苑はすっかり呼吸を忘れ、金縛りに遭っていた。
なぜ、よりにもよっていま、ここで────と、不運極まりない邂逅を恨んだ。
とっくの昔に封印したはずの記憶が、蝕むように脳裏を駆け巡る。
もう二度と、会いたくなどなかった。
「ここで何をしておる。なぜ、この小娘のもとへおるのだ。宮中にいたのなら、なぜわたしに知らせなかった」
容燕の目にはほかの何も映っていないらしく、一心不乱に紫苑に迫っている。
尋常ではない様子を受け、さすがに割って入ろうかとした春蘭であったが、それよりも先に紫苑自身が動いた。
「……わたしはもう、碧依ではありません」
心底嫌悪したような冷酷な声色に、容燕のみならずふたりも怯んでしまう。
上腕を掴む容燕の手を振りほどき、彼は言を繋ぐ。
「あなたを父だなどと思うこともない。わたしに何も期待しないでください。わたしは、あなたの思い通りにはならない」
戸部へ戻った淵秀と別れ、春蘭は紫苑や櫂秦とともに後宮へ戻る道を歩いていた。
紫苑はつい硬い表情で、忙しなく周囲に視線を振り向ける。ここは容燕の執務室に近い。
宮廷は果てしないほど広い。紫苑の活動範囲が主に後宮であったこともあり、これまでは彼と出くわすのをどうにか避けることができていた。
しかし、いまは妙に胸騒ぎがする。
角を曲がった瞬間、先から何者かが歩いてくるのを認めた。
果たして、ほかならぬ容燕であった。紫苑は胸騒ぎの的中を自覚する。
(……最悪だ)
内心で嘆きはしたが、頭はまだ冷静であった。
しかし、身体はその場に縫いつけられたかのごとく硬直してしまう。
────やや骨張った細身の男。白髪混じりの長髪と神経質そうな眼差し。顎にたくわえた髭。
少しばかり老いたように感じられるが、最後に見た折とほとんど変わらない姿である。
容燕もまた、紫苑を認めた。視線が交わり、驚愕に目を見開く。
「そなた……」
紫苑の瞳が怯んだように揺れる。
気づかれた、と思わずあとずさったが、容燕は逆に半歩踏み出した。
「碧依────」
慈しむように手を伸ばす。
先ほど執務室にいた“碧依”は、酔いの見せた幻であると自覚していた。
それでも縋ってしまうほど、容燕は有能な長子の存在を求めていた。
目の前の男は彼の面影を兼ね備えている。背丈は何寸も伸びているが、聡そうな眼差しは変わらない。
「……碧依? って、何か聞き覚えあるような」
「確か、消息不明の蕭家の長男って話だったはず……」
櫂秦と春蘭は困惑混じりに囁き合った。榮瑶が以前、そんな話をしていた覚えがある。
紫苑がその“碧依”であるとでも言うのだろうか。
ふたりして戸惑いと怪訝の面持ちで彼らを見比べた。
「…………」
紫苑はすっかり呼吸を忘れ、金縛りに遭っていた。
なぜ、よりにもよっていま、ここで────と、不運極まりない邂逅を恨んだ。
とっくの昔に封印したはずの記憶が、蝕むように脳裏を駆け巡る。
もう二度と、会いたくなどなかった。
「ここで何をしておる。なぜ、この小娘のもとへおるのだ。宮中にいたのなら、なぜわたしに知らせなかった」
容燕の目にはほかの何も映っていないらしく、一心不乱に紫苑に迫っている。
尋常ではない様子を受け、さすがに割って入ろうかとした春蘭であったが、それよりも先に紫苑自身が動いた。
「……わたしはもう、碧依ではありません」
心底嫌悪したような冷酷な声色に、容燕のみならずふたりも怯んでしまう。
上腕を掴む容燕の手を振りほどき、彼は言を繋ぐ。
「あなたを父だなどと思うこともない。わたしに何も期待しないでください。わたしは、あなたの思い通りにはならない」