桜花彩麗伝



 ────ふらふらとおぼつかない足取りで後宮へ赴いた容燕は、桜花殿の前で立ち止まった。

「碧依!!」

 酒瓶を片手に(しゃが)れた声を張って呼ぶ。容燕の心中には執念ばかりががんじがらめになっていた。
 あの頃、やむなく手放した我が子を取り返さなければ。
 碧依を諦めた後悔を埋めるため。有能な跡取りを蕭家の次期当主に据えるため。
 彼さえ戻れば、蕭家は没落(ぼつらく)を免れるだけでなく再び興隆(こうりゅう)するはずである。
 碧依をもう一度手の内に留められるのであれば、いかなる手段も(いと)わないつもりであった。

 やがて、扉からかの青年が現れる。
 紫苑は春蘭や櫂秦を殿内に留め、ひとりで容燕と相対した。

「……わたしに何も期待するなと申したはずです」

「ふん……。そなたもいまに我に返るはずだ、碧依。早急に身分を取り戻し、ともに屋敷へ帰るとしよう」

 厳然(げんぜん)と警戒心を(あらわ)にしていた紫苑はその言葉を受け、(あざけ)るように笑う。

「ありえません。それから、二度とわたしをその名で呼ばないでください」

 とうに捨てたそれは、いまわしい過去を象徴する、()むべき名にほかならない。耳にするだけで反吐(へど)が出る。

 頑なな拒絶の態度を示されても、容燕が易々と引き下がることはなかった。
 いくら悪態をつこうと、所詮は自分の子である。
 篤実(とくじつ)忠孝(ちゅうこう)たる彼であれば、この危機に手を差し伸べてくれるはずだ。
 “真の味方”は碧依のほかにいないのだから。

「いまのわたしにはそなたの力が必要なのだ。執権(しっけん)を取り戻す良計(りょうけい)を────」

「いい加減にしてくれ!」

 吠えるような勢いで紫苑はたまらず怒鳴った。
 意表(いひょう)を突かれたように瞠目(どうもく)する容燕を厳しい眼差しで見据える。

「現状はすべて身から出た錆。罪を犯したなら償うのが道理というものだ」

 容燕の手から落ちた酒瓶が音を立て転がる。中身はほとんど空であったが、点々と雫を滴らせた。
 空洞と化した容燕の心を冷ややかな風が吹き抜けていく。
 足元が揺れ、地が割れ、彼との間に深い裂け目が生まれ分かたれた。
 紫苑は強い態度を崩さず、毅然と言を繋ぐ。

「いいでしょう。そこまで言うなら、あなたに諌言(かんげん)してさしあげます。仮にも誇り高き功臣(こうしん)一族の当主ならば、これ以上の醜態(しゅうたい)を晒さぬことです」
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