桜花彩麗伝
     ◇



 一旦、追跡を逃れた夢幻は丹紅山の一角へ逃げ込んでいた。
 闇雲(やみくも)に市中を逃げ回るのではなく戻る判断をしたのは、ここが鳳家の荘園(しょうえん)であるからこそだ。
 追っ手の動向が羽林軍の独断にしても勅命(ちょくめい)にしても、鳳家との全面衝突を避けたいはずであり、迂闊(うかつ)に領域を(おか)しはしないであろう。

「……っ」

 左の上腕(じょうわん)をおさえ、響く痛みに奥歯を噛み締める。
 てのひらがべっとりと赤い。兵に斬りつけられ、傷から染み出した血が袖を染めていく。
 警戒を緩めないまま身を隠し、注意深く堂を眺めた。

 捜査という名目で、自分が鳳宋妟である証拠となりうるものを物色(ぶっしょく)していくのではないかと踏んでいたが、兵たちはことのほかあっさりと引き揚げようとしていた。
 怪我は負ったものの追跡は甘く、だからこそ免れたわけだが、もしかするとそれすらもあえてのことかもしれないと思えてくる。
 何者かに泳がされているような、陰謀(いんぼう)の気配が漂う。

 ────兵らの姿が消えると、滑走(かっそう)してきた一台の軒車(けんしゃ)が砂埃を立てながら停まった。
 慌てたように降りてきたのは春蘭である。
 その姿を認めた夢幻は周囲を警戒しながら慎重に下り、陰から出ると彼女のもとへ向かう。

「……春蘭」

 掠れた声で呼びかけられ、はっとしたように春蘭は振り向いた。
 ひと目で分かるほど全身に怪我を負っている。特に左腕の切り傷が深いようで、滴る血が止まっていない。
 素早く駆け寄ると、春蘭はほどいた髪紐を上腕に縛りつけた。

「大丈夫なの? 何があったの? 急に兵が来るなんて……」

「分かりません。何者かに勘づかれたのかも……」

 怪我のせいか危機感のせいか、血の気の引いたような夢幻の顔色が春蘭の焦燥(しょうそう)をかき立てる。

「怪我がひどいわ。一旦、堂の中へ戻りましょ」

 肩を支えるようにして歩き、ものの散乱した堂内へ入ると彼を壇に座らせる。
 正面に屈み込んだ春蘭は、止血用に巻いた髪紐を結び直した。

「医院へ行ってお医者さまを呼んでくる」

「待ってください。嫌な予感がします。堂に立ち入っていたのは羽林軍の兵でした。わたしを斬りつけたことは連中も承知の上……医院は張られているかも」

「でも、じゃあどうしたら……」

「わたしに構わず、逃げてください」

 夢幻は謹厳(きんげん)な眼差しで強く告げる。

「錦衣衛であればともかく、羽林軍が介入してくるなんて妙です。みすみす逃し、頓着(とんちゃく)しないのも怪しい。何か裏があるはずです」

 何者かの思惑が働いていると見てまず間違いないであろう。
 追跡にも確保にも躍起にならず、ああも簡単に引き揚げていったことには違和感しかなかった。

「ここも割れてしまった以上、長居してはあなたも危険です。いまのうちに早く────」

 夢幻は不意に言葉を切った。
 徐々に近づいてきた馬蹄(ばてい)の音が大きくなり、空気が緊迫して張り詰める。
 それは堂の前で止まった。
 差し迫ったように顔を強張らせた春蘭は、夢幻と目を見交わした。

「紫苑と櫂秦が来たのかも……」

 半ば希望を込めながら呟いた春蘭が立ち上がったとき、軋んだ音を立てながら扉が開く。
 幾重(いくえ)にも連なっていた、視界を遮るような(しゃ)は先ほど兵らによって破り裂かれており、入ってきた彼とすぐに視線がぶつかった。

「春蘭……?」

 彼、もとい煌凌の不安気な声が(くう)に溶ける。
 愕然(がくぜん)と言葉を失った春蘭は、呆然とその場に立ち尽くしていた。
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