桜花彩麗伝

 思わず春蘭の瞳が揺れる。

『そなたは余の……唯一で、一番だ』

 不意に記憶の中で重なったその言葉は、淵秀がくれたものではない。
 それなのに不思議と同じ響きを含んでいた。

「…………」

 このままではいけない、と思った。このままでは、何もかもが中途半端だ。
 後宮を辞したとき、指輪と一緒に置いてきたはずの未練も手放せないまま。
 縁談のもと婚姻が推し進められる中、淵秀と向き合うこともできないまま。
 いずれもあやふやであるならば、少なくともいま、そうと正直に伝えることだけが精一杯の誠意であろう。

「あの、公子(こうし)さま────」

「名前を、呼んでくれませんか」

 緩やかに言葉を遮った彼の顔には、変わらず優しげな微笑がたたえられていた。
 それでいてどこか切なる色の双眸(そうぼう)に惑わされる。

「……淵秀、さま」

 探るような言い方で呼ばれた名には慣れない響きがあった。
 それでも、淵秀はこの上なく嬉しそうにはにかむ。

「ありがとう────春蘭。僕も姫さまをそう呼んでいいですか?」

 そう小首を傾げた彼に頷くと、彼はふと櫂を漕ぐ手を止めた。
 ささらめく水面(みなも)に小舟が揺蕩(たゆた)う。花筏(はないかだ)が揺れる。
 一拍ののち、淵秀の手が伸びてきた。
 (しゃ)の奥の艶やかな髪を分け、そっと頬に添えられる。

「僕に機会をくれませんか」

「え……」

「あなたを振り向かせる機会です。僕は、あなたが欲しい」



 ────大胆で正直な淵秀の言葉にどんな表情を浮かべていたのか、思い出そうにも自分では分からなかった。
 午下(ごか)の頃、春蘭は彼とともに茶亭(ちゃてい)へと入った。
 卓につくと、図らずもほかの客の会話が耳に入ってくる。

()(ぶみ)を見たか? 妃選びが始まるらしいな」

「また鳳家の姫君が選ばれるのか? 家柄からして誰も文句ないだろ」

「しかし、かの鳳貴妃さまは追い出される形で後宮を辞したしな……。それに、白家との縁談があるって噂だ」

 どうやら市井(しせい)は妃選びの話題でもちきりのようだ。
 当の本人らは困ったように顔を見合わせ、互いに苦笑した。

「そうだ、正妃には楚家の姫が内定してるって噂もある」

 その言葉に春蘭はぴたりと動きを止める。動揺を禁じ得ず、視線を彷徨わせた。
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