桜花彩麗伝

最終話


 ……それでいいと、思っていた。
 心に残る未練や“彼”への想いをあの指輪に預け、二度と戻ることのないであろう桜花殿へ置いてきた。
 それで(えにし)は断ち切れたものであると信じていた。

 しかし、そんなことは決してなかったことに気づかされる。
 季節が巡り、春を迎えても、自分だけが何も変わっていない。過ぎた日々に囚われたまま踏み出せずにいる。
 大切なものは、失ってから気づくという。かくしてこれほどまでに心を()めていた彼の存在に、彼への想いに、気づかされたのは二度目だ。

 それでも、自分にはそんな資格などないと思っていた。
 もともと打算的な思惑のもと妃に迎えられた春蘭がそばにいた最大の目的は、彼を王たらしめることにあったはずである。
 長きにわたりのさばり続けた王太后を廃し、邪悪な強敵であった蕭家を打ち倒し、最後の最後、公私(こうし)を混じえず一視同仁(いっしどうじん)に“罪人”である春蘭を裁いてみせた彼は、文武百官が信を置き忠誠を誓うに相応(ふさわ)しい王となった。
 春蘭の役目はもうない。彼のそばにいても、できることなど。
 それでもそばにいたいと願ってしまうのは、それこそわがままでしかない。

 だから、身を引くが賢明(けんめい)であると思っていた。
 王たるに相応しい彼は正妃たるに相応しい姫君(芳雪)(めと)るべきであるゆえに、後宮で過ごした日々を九年前のそれのように遠い思い出にしようと。互いにそのうち忘れなければならないと。
 ちがったのかもしれない。それこそ、春蘭が多くを望まないためのわがままであった。
 何せはじめから、彼が春蘭に求めていたものは一貫していた。

『そなたのそばにいたいだけだ。春蘭と過ごす時間は、何もせずとも好きだから』

『春蘭といるときは、王であることを忘れられる』

『そなたは特別だ、春蘭。ありがとう』

 彼を王ではなくひとりのひととして、煌凌として向き合ってきたのは春蘭のほかにいない。
 役目や使命など二の次だ。
 王たらしめる彼の、唯一の心の()りどころであって欲しいと願っていたのだと、いまになって気がついた。
 玉座の重みを身に染みるほど理解していながら、春蘭のために捨てられるとも言ってのけたその覚悟はいかばかりであっただろう。
 ほかでもない煌凌が願うはひとつだけ。

『そなたと生涯をともにしたい。本気でそう思っている。これは、わたしの気持ちだ』
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