桜花彩麗伝

 愛しげに呟かれ、春蘭はふと失念していた本題を思い出した。
 切り出す隙を窺うと妙に沈黙が気にかかる。車輪の回る音、遠くに聞こえる小鳥の(さえず)り、珠簾(たますだれ)の揺れてぶつかる音────。
 迷いながら外に目をやり、何とはなしにひらひらと舞う蝶を眺めた。

「春蘭」

 ひときわ()でるような響きで呼ばれ振り向くと、淵秀はどことなく寂しげな儚い微笑をたたえていた。

「……そう呼ぶのは最後にします。ふたりきりで過ごすのも今日限りになるでしょう」

「え……」

「本当は最初から分かっていました。あなたの心に僕がいないことも、入り込む隙などないことも。それでも、僕はずるいから期待してしまった。優しい春蘭なら、面と向かって僕を拒めないんじゃないかと」

 さらさらと流れる小川のような語り口だった。落としていた切なげな眼差しをもたげ春蘭を捉える。

「あなたの罪悪感を利用してまで、そうしてまで……手に入れたいと思った。最低でしょう?」

 咄嗟に言葉を返せず、口を結んだ春蘭はかぶりを振った。
 淵秀はただ小さく笑んでいた。

「最低ついでに少しだけ、わがままを言ってもいいですか」

「……もちろん」

「この丘を抜けるまで、このままでいたい。それと、最後にもう一度だけ名前を呼んでくれませんか」

 決して多くは望まなかった。どちらも春蘭の意ひとつで叶う、ささやかな願い。
 小さく頷いた春蘭は、だから、彼の手を離さなかった。
 この温もりはいずれ過去のものとなり、思い出となり、忘れてしまうのかもしれない。それでも、彼のくれた身に余るほどの想いと優しさを心に留め置くために。

「……ごめんね。最後まで、あなたは優しいから、わたしを悪者にしないように今日も連れ出してくれたのね」

「そんな、こと」

 不意を突かれたかのように表情を強張らせた淵秀を見やり、ふと泣きそうになった。
 彼はやはり嘘が下手だ。
 そんな彼ばかりに傷を負わせ、お茶を濁すように切り抜け、守られるだけの綺麗な終わり方で、真心をもって彼の気持ちに向き合ったと言えるのだろうか。後悔はしないだろうか。

「わたし……わたしも、もう本心を偽れません。あなたの言う通り、あの人を想ってる。この気持ちは揺らがない。だから、あなたと婚姻はできないけど────」

 その瞳に涙を溜めながらも春蘭は精一杯笑ってみせた。
 彼に返せる言葉はひとつしかない。

「ありがとう、淵秀」
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