桜花彩麗伝



 ────鳳邸へ帰着し、軒車が停まった。
 淵秀の手を借りつつ降りると向かい合う。いずれも清々しく晴れやかな表情をたたえていた。

「それじゃ、またね」

 春蘭の言葉に頷いた彼は刹那(せつな)、目を伏せる。
 すぐに顔をもたげ、まっすぐな眼差しで微笑みかけた。

「さよなら、()()()

 次に顔を合わせたときは、()を混じえず妃と官吏に戻るのであろう。
 彼から“春蘭”と呼ばれることも“姫さま”と呼ばれることも、もう二度とない。
 淵秀と春蘭のふたりで過ごした時間は決して戻らず、この先訪れることもない。
 去っていく軒車を見えなくなるまでしみじみと眺めていた。
 ありがとう、と告げた、名を呼んだ、そのとき彼が見せた表情はきっと、ずっと忘れない。



 その夜、春蘭は元明の帰りを待って書斎で顔を合わせた。
 蝋燭(ろうそく)の柔らかな灯りが揺れる。元明はひときわ真剣な眼差しを向けた。

破談(はだん)にしたい、か。本当にそれでいいんだね?」

「ええ」

 くだんの縁談を白紙に戻すよう言ってのけた娘に確かめると、彼女はいささかの躊躇や迷いも見せず頷いてみせる。
 それから毅然たる表情で言を繋いだ。聡明(そうめい)で意思の強かった緋茜によく似た面持ちで。

「お父さま。わたし、王妃になりたい」

 元明はさして驚くことなくその言葉を受け止める。一方であえて厳しい態度を装った。

「それは、これまでのような飯事(ままごと)の後宮暮らしとはちがう。国の将来と一族の命運を背負っていくことになるんだ。その覚悟はあるんだね?」

 春蘭が間を置くことなく決然と頷いてみせると、ややあって元明の顔にいつもの優しげな笑みが戻った。
 身上書(しんじょうしょ)をしたためるべく料紙(りょうし)を広げ、丁寧に(すずり)で墨を()る。

「……なら、いいんだ。幸せになりなさい」



 ────それからほどなく書類選考を通過し、第一次審査の行われる日取り、春蘭は橙華の手を借り支度を整えた。
 最後に紅を引き、押さえ紙で整えると、彼女はうっとりと言う。

「わあ、素敵……。完璧なお姿です。合格間違いなしですね!」

「ほ、本当?」

「もちろんです! お嬢さまの器量とわたしの仕立てがあれば、ほかのご令嬢なんて目じゃありません。自信を持って(のぞ)んできてくださいね!」

 楽しげに頬を染めている橙華に、春蘭も思わず表情を綻ばせた。緩やかに緊張が解けていく。

「ありがと、橙華」
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