失くしたあなたの物語、ここにあります
 天草さんの記憶は鮮明なようだ。恥ずかしくてたまらない。だけれど、あの頃は引っ越しが憂鬱で、学校での居心地もあまり良くなくて、落ち込んでばかりいた沙代子には、周囲の目を気にする余裕はなかったかもしれない。

「覚えてるよ。かわいい子だなって思ってたから」

 さらりと告白できるのは、それが淡い恋心だったからだろう。

 かわいらしい初恋だった。彼はそう言ったのかもしれない。これまでの人生で、彼はいくつもの恋をしてきただろう。そういう恋とは違う、本当に儚い恋心。

「俺、初恋の女の子が葵さんでよかったと思ってる」

 その言葉はどう受け止めたらいいのだろう。

 沙代子は思わずうつむいた。好きになってくれてありがとうと言うのも、今の自分はあの頃の自分とは違うんだと言うのも、何か違う気がする。

 小学生だった沙代子の姿を、今の葵沙代子に重ねているなら、彼の恋心を必ず裏切る日が来るだろう。そのぐらい、沙代子はつらい経験をしてきた。小さな頃の純粋だった自分はもういない。

「葵さん、俺はうわさ話に何も困ってないし、できれば、うわさ話じゃなくて本当になればいいとも思ってる」

 ご近所さんのうわさ話を言ってるのだろう。あの葵家の娘と付き合ってる。そのうわさはいずれ彼を傷つけるのに。

「……鶴川に戻ってきたこと、後悔したくないの」
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