失くしたあなたの物語、ここにあります
 途端に彼の足が止まる。いつの間にか空は薄暗くなっていたが、ほんの少しうつむいた彼の浮かない表情は見て取れた。

「あの人が宮寺院長の娘だって知ってるんだね」

 はっきりとそう言うと、ますます彼は戸惑いをあらわにする。

「葵さん、知ってた?」
「うん、知ってる」
「……なんか、ごめん」

 その顔には後悔が浮かんでいる。彼なりに気をつかってくれたのかもしれないけど、逃げたことで詩音さんは困惑しただろう。だからって、あのまま再会していても、沙代子はきっと何も話せなかった。彼が気にやむことは何もない。

 手首をつかむ彼の手が離れていくから、沙代子は引き止めるようにとっさに手を握った。蒸した暑い日暮れだというのに、彼の指先は冷たい。沙代子よりも彼の方が動揺したのかもしれない。あたためるように包み込む。

 以前は沙代子からこの手をほどいてしまったが、今は離れたくないと思った。

「私、大丈夫だから」

 つぶやくように言うと、天草さんは沙代子の手を握り返す。

「葵さん、まろう堂に来て。まだ帰したくないんだ」

 彼に手を引かれたまま、まろう堂の中へと入る。カウンター上のライトが灯ると、店内は薄ぼんやりと明るい光に包まれる。

 ふたりでカウンター席に腰かける。彼とはいつもカウンター越しで向かい合って話すばかりだから、こうして並ぶのは初めてのことだ。

「何か、作るよ」
「ううん、いいの」

 すぐに立ちあがろうとする彼を引き止める。

 どういうわけか、今は少しも離れていたくない。そんな気持ちを見透かされたのか、天草さんはふたたび沙代子の手に触れた。

 お互いの気持ちを探るように、一本一本の指が少しずつ重なっていく。しっかりとつながれたら、彼が顔をのぞき込んでくる。
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