失くしたあなたの物語、ここにあります
 大きな瞳に吸い込まれそうで見つめていると、顔が近づいてくる。きっとキスをしたがってる。そう思ったのは、沙代子もそんな気持ちになっていたからだ。

 だけれど、沙代子は意気地がなくてパッと身を引いた。

「あ、ねぇ、秋祭りの打ち合わせしなきゃ」

 手をつないでおいて、今さらだ。心を通わせたようなものなのに拒んでしまって情けなくなる。

 天草さんが思い悩んだ顔をするから、話をそらそうと沙代子も必死になる。

「文具屋さん、今から行ってももう閉まっちゃってるよね。次の休みに私が買いに行ってくるから、それまでにメニュー決めよう。フィナンシェはプレーン以外の味があってもいいと思うし。あっ、そうだ。天草さんはいつも忙しいから、メニュー表も私が作るから……」
「葵さん、ごめん」

 彼は落ち着いた口調で、ひとりでまくし立てる沙代子を遮る。

「俺はまだ、付き合いたいって思ってるよ」

 その明確な意思表示に、ますます沙代子はひるんだ。彼を不幸にしない約束なんてできない。とっさにそう考えてしまった。

「迷ってくれてる?」

 天草さんは優しい。沙代子の気持ちが前に向くのをじっと待ってくれているのだと思う。

 何を臆病になってるのだろう。思い切って飛び込んでみたらいい。彼のような包容力のある人の好意を断ったらきっと後悔する。そう思うのに勇気が出ないのは、向けられる愛情と同等の愛を与えられる自信がないからかもしれない。

「……お返事はまた今度」

 ようやく口にできた言葉も情けないものだった。返事は期待できないと思ったのか、彼は眉を下げると、そっとため息をつくように笑った。
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