🍞 ブレッド 🍞 ~フィレンツェとニューヨークとパンと恋と夢と未来の物語~【新編集版】
 次の定休日の翌日、店仕舞いをしていた弦は店の隅に立っているアンドレアに気がついた。
 練習を早く切り上げたのだろうか、こんな時間に帰ってくるのは珍しいことだった。

「どうしたの? 今日はやけに早いね」

「ん。ちょっとね」

 いつものアンドレアらしくない歯切れの悪い口調だった。

「あのさ」

「何?」

「あの~」

 ぐずぐずとしたような煮え切らない口調に苛立ったので、「なんだよ」とムッとした声になった。
 すると、「怒るなよ」となだめるような声が返ってきたが、話を切り出そうとしないので「だから、なんだよ」と詰め寄ると、「うん」と踏ん切りをつけたかのようにアンドレアの顔が引き締まった。

「ちょっと用事があってサンドロさんに電話した時に聞いたんだけどさ、薬局の女の人に一目ぼれしたんだって?」

 いきなりのジャブに面食らって「今頃なんだよ」と背を向けると、「いや~、スマホで撮った写真を整理していたらこれが出てきてさ」とにやけた声が返ってきた。
 それで振り返って画面を覗き込むと、サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局の店内の写真が見え、スクロールすると、弦と女の人が写っているものが現れた。あの美しい人、フローラだった。

「この人のこと?」

 顔を覗き込まれて一瞬固まったが、仕方なく頷いた。

「これっきり?」

 答えようかどうしようか迷ったが、話さないわけにもいかず、ベーカリーでパン焼きを体験させてもらったことやディナーに招かれたことを話した。

「凄いじゃん」

 アンドレアの目は興味津々というような光を放っていた。

「で?」

「で、って……」

 ちょっと口ごもったが、礼状も書いていないことを正直に話すと、「ダメだよ、それ」と大きな声が返ってきた。「せっかくのチャンスなのに、何やってんだよ」

 叱るような声になったので思わず言い訳を口にしそうになったが、毎日疲れ果てて手紙を書く余裕がないとは言えなかった。
 そんなことを言えば恩着せがましくなるからだ。
 弦はぐっと堪えてうつむいた。
 しかしそんな心の内を知る由もないアンドレアは「メールでもいいから送らなきゃ」と苛立ったような声を出した。

 彼の言う通りだったが、メールアドレスを訊いていないことを正直に告げると、「なんでそんなことも訊いてないんだよ」と更に苛立つような声が返ってきた。
 そのあとは腕組みをして考え込むような表情になったので黙ってしばらく様子を見ていたが、いつまで経っても口を開こうとしないので「掃除しなきゃいけないから」と告げてモップを手にすると、彼は店の中を見回してから「わかった」と呟いて背を向けた。

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