ショパンの指先
授業そっちのけで練習し、まるで何かにとりつかれたかのように没頭し続けた。

 自ら進んで専念していたのは初めてだった。母はそんな俺を温かい目で見守っていた。急激に老け込んだ顔で、嬉しそうに俺の練習するピアノを聴いていた。「洵のピアノの音色が、私の元気の源よ」といつも言っていた。

 そしてショパンコンクールオーディション予選日の一か月前。母が突然倒れた。末期癌だった。母は即入院し、医者にどうしてこんな状態になるまで放っておいたのだと言われた。母は「気が付かなかったの」と言ったけれど、きっと嘘だ。

闘病生活になったら、働けなくなって、俺にピアノを続けさせることができなくなるからだ。母はそういう人だった。いつだって俺のピアノを一番に考える。俺のために生きて、ボロボロになって、それでも俺に笑顔を向ける。

「俺、ピアノ辞めるよ」

 病室の丸椅子に腰かけながら、項垂れてそう呟くと、母は突然怒り出した。

「何言っているの! あなたはショパンコンクールに出場して世界から絶賛されて、有名なピアニストになるの! 洵が演奏会を開けば、コンサートホールは超満員で観客は全員あなたのピアノの音色に恋するの。それが私の夢。ねえ、洵、こんなことになってしまったけれど、オーディションには必ず出場してね。そしてショパン国際ピアノコンクールに出場してポーランドに行くの。大丈夫、お金のことは心配いらない。だからお願い、母さんのためにもピアノを弾いて」

 そう言われては、頷くことしかできなかった。母は馬鹿だ。こんな風になってまで、俺にピアノを続けさせようとするなんて。そして、こんな状態になるまで気付かなかった俺は、もっと大馬鹿者だ。

母の愛に目を背けて、うざがって、酷い言葉もいっぱい言った。それなのに、母はいつだって俺のことを考えていた。俺を愛してくれていた。自分を犠牲にして、俺を育ててくれた。
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