ショパンの指先
「俺、絶対ショパン国際ピアノコンクールに出るよ」

 母の萎れた手の平を、両手でぎゅっと包み込むと、母は嬉しそうに笑って、震える指先で弱々しく握り返した。


 そして、その三週間後、母は亡くなった。オーディション予選日の前日だった。

 母が亡くなって、憔悴しきっているところに、離婚した父が病院に駆けつけてきた。父はすでに再婚していて、子供もいる。入院中は一度も見舞いに来なかったくせに、息を弾ませて青ざめた顔で来たときは、何を今更と白々しい気分になった。その父が事もあろうか、「葬儀を遅らせるから、お前はオーディションに出ろ」と言われた時は、ぶん殴りたい衝動に駆られた。

「出られるわけないだろ、こんな状態で!」

 怒りを露わにして叫んだ。俺のピアノに興味がなかったくせに、よくも……という気持ちだった。

「遺書があった。生命保険金を、洵がポーランドに行く旅費と滞在費用に当ててほしいって」

 絶句だった。
 なんだよ、お金のことは心配いらないってそういうことだったのかよ。最初から自分が死ぬこと分かっていて、だからそんなこと言ったのか? なあ、そうだろ? 死んでまで俺に行かせたかったのか?

 約束を、思い出した。俺は約束を果たさなければいけない。母のために。

 オーディション予選日。予選だというのに、コンサートホールは、出演者の家族や一部の音楽好きで席が埋まっていた。コンクール慣れしているとはいえ、ショパンコンクールの出場を争うオーディションは独特な緊張感に包まれていた。

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