ショパンの指先
生まれて初めて挑む、たった一人のコンクール。どんなに忙しくても、いつも母は仕事を休んで俺のコンクールを聴きに来ていた。

 刻一刻と自分の演奏する順番が近付いてきて、俺は途端に不安になった。孤独で押し潰されそうになった。指が震えていた。緊張からか、怖れからか、震えを止めようと焦れば焦るほど、どんどん揺れは大きくなっていく。

 突然胃から酸っぱいものが込み上げてきて、俺はトイレに駆け込んだ。吐こうとしても、吐けない。当然だった。昨日から何も食べていない。寝てもいない。こんな状態でライバルたちに勝てるのか不安だった。練習だって思うようにできなかった。あそこの詰めが甘いとか、あのフレーズを上手く弾けるだろうかとか、不安なことが怒涛のように頭の中で渦巻いてクラクラした。

 大丈夫だ、今まで積み上げてきたものがある。俺は誰にも負けない。そう言い聞かせて、ステージへと向かった。

 暗いコンサートホール内で、スポットライトに当てられている黒光りのグランドピアノが俺を手招きしていた。目の前がグラグラと揺れた。

 大きく深呼吸して、椅子に座る。大丈夫、これは予選だ。俺の実力なら予選は必ず通る。いつも通りに弾けばいい。練習通りに弾けば、かならず通過する。

 俺は鍵盤に指を乗せた。さあ、いくぞ。


 数分後、会場がざわめき出した。審査員だけでなく、観客全員が俺を見つめていた。

 俺は、椅子に座って、鍵盤に指を乗せたまま、一音も弾くことができなかった。周りは何が起こったのだと心配そうに騒ぎたてる中、俺は、鍵盤に乗せた自分の指を見つめたまま硬直していた。

 動かすことができなかった。指に力が入らないのだ。鍵盤が重くて押すことすらできない。

 そうして、俺の演奏は終わった。一音も紡ぎだせずに。
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