ショパンの指先
 職も住む所も失っていた俺には、この誘いはまさに地獄から垂れてきた蜘蛛の糸のようだった。しかもその糸は、ピアノ線と繋がっている。俺は夢中でその糸を掴んだ。

 話し掛けてきた女性の名前は遠子といい、旦那の金で何不自由なく暮らす専業主婦だった。傍から見れば自由で恵まれた環境のように見えるが、遠子さんは孤独を抱えていた。子供もいない、旦那は仕事で忙しく、時間とお金と美貌がある遠子さんは、内に燃えたぎる女の情欲を抱え込み苦しんでいた。

世間はそれを甘えと呼ぶだろう。しかしその孤独と飢えた欲望は、人を不幸にさせるには十分なものだということを、俺は知っていた。

衣食住が足りる生活が万人にとって幸せと言い切ることができるだろうか。俺には苦痛にしか感じない。

ピアノがない生活は死も同然だ。遠子さんの場合は、愛がない生活は何よりも不幸だった。

だから俺は、遠子さんに偽りの愛を捧げ、その代わりに遠子さんは俺に住む場所と職を与えてくれた。人にはそれぞれ幸せのかたちがある。世間の偏った倫理観に支配され、生きたまま死を味わうより、俺はピアノを続けることを選び、遠子さんは愛を選んだ。

ただ、それだけのことだった。

 俺はピアノの椅子に腰かけながら、杏樹が出て行ったドアを見つめながら過去のことを思い起こしていた。

 何かが自分の中でプツリと切れた気がする。ピアノの弦が切れるように、唐突に前触れもなく。無理をしていたのだろうか。俺は間違えた道を歩いていたのだろうか。なにが大切で、なにが大切じゃなくて、失っていいものと、失ってはいけないものの区別がつかない。

分からない。杏樹を遠ざけて、傷付けて、これで良かったのか。悪かったのか。どうしたらいいのかが、分からない。

 頭の中で『葬送行進曲』が鳴り響く。不気味で重たいあのメロディーが頭の中で轟(とどろ)いて、冷たく暗い墓地の中に佇んでいるような心持ちになった。
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