ショパンの指先
頭を振っても、目を瞑っても、開けても、頭の中のメロディーは止まらない。そのうち、漆黒のピアノが、墓碑に見えてきた。ベージュのフローリングが、湿り気を帯びた土に変わっていき、慄然(りつぜん)とした。幻想と現実の区別が曖昧になりだして、恐ろしくなった。

 突然、土の中から白い手が出てきて、俺の足を掴んだ。悲鳴を上げそうになるのを必死で堪え、これは幻覚だ、土なんかない、手が出てくることなんかあり得ないと自分に言い聞かせ目を瞑った。

足先から恐怖が昇ってくる。幻覚のはずなのに、冷たい手の感覚がするような気がして恐ろしくなった。ゆっくりと目を開けると、俺の足を掴んでいるのは、母だった。母が、土の中から這い出て俺の足を掴んでいる。

 意識が遠のきそうになった。母と目が合うと、母の顔はだんだん遠子さんの顔になった。遠子さんは愛おしそうに俺の顔を見上げている。

 ああ俺は、結局今も縛られていた。母が死に、自分の意思でピアノを弾いていると思っていた。俺はいまだに母に縛られていたのだ。

母に似た遠子さんに寄りかかり、ピアノを続けていた。俺は誰かが側で支えてくれていないと何もできない男なのだろうか。金銭面を頼り、精神面さえも、頼っていたのかもしれない。遠子さんの孤独を埋めてあげていると思い上がっていたが、俺は遠子さんを母の代わりにして寂しさを紛らわしていたのかもしれない。

 これほどまで自分を卑しいと思ったことはなかった。自分の全てに嫌悪した。なんて下品で弱く利己的な人間だ。こんな人間は人を愛する資格はないし、愛される資格もない。杏樹を欲しいなんて思うことすらおこがましい。

 頭の中で鳴り響いていた『葬送行進曲』は『大洋』にかわり『革命のエチュード』が加わった。まるで壊れたオルゴールのように、曲が唐突に変わり、重なり合い、ぐちゃぐちゃになっていた。

 止めようとしても止まらない不協和音が頭の中で鳴り響く。オルゴールなら、完全に破壊してしまえば音は止む。けれど、この音は自分の頭から鳴っている。止めるには、自分の頭を破壊するしかない。
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