ショパンの指先
「あああああああ!」

 俺は叫び、ピアノの鍵盤をでたらめに叩きつけ、なんとか別な音を出そうと必死で戦った。

 大好きなピアノの音色が、尊敬するショパンの曲が、俺を苦しめる。不協和音は鳴り止まない。俺は棚に仕舞ってあったウィスキーの蓋を開けて、そのまま一気に喉に流し込んだ。
 
 ほとんど気絶するように眠りに落ち、起きた時はひどい二日酔いが俺を襲った。頭の中で鐘が鳴るような頭痛と、抜け切れない酒を引きずりながらアマービレに出社した。

 俺の顔を見るなり優馬は「ひどい顔」としかめ面をしながら嘲笑した。俺は優馬を無視して、早々に檀上に上がった。スポットライトが俺を照らす。いつものようにピアノの椅子に腰かけ、鍵盤に指を乗せた。

 毎日していることなのに、どうしてだか今日は様子が違った。嫌な予感が脳裏を掠める。

 ……指先が震えていた。

 緊張する場面でもないのに、どうしてだか背中に冷や汗が流れ、震えは全身に伝わっていった。青ざめ、気持ち悪くなってきた。あの日のことがフラッシュバックされた。ショパンコンクールオーディションの予選日。俺は一音も紡ぎだせずに終わった。

「洵!」

 突然俺の名前を呼ぶ声がして、店内を見渡すとカウンターの中から優馬が恐い顔をしてこっちを見ていた。

 手先を上下に動かしている。「おいで」という意味だろう。店内にいる客も、従業員も「どうしたんだろう」という顔でこちらを見ている。けれど特に際立って不審がってはいない。俺の異変に気付いたのは優馬だけだったらしい。

 俺は天井を見上げて大きく深呼吸をした。危ないところだった。優馬に声を掛けられなければ、狂人のように絶叫しピアノに意味もなく殴りかかっていたかもしれない。
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