ショパンの指先
「こんな所で立ち話もなんだし、あそこのベンチで少し話さない?」

 遠子さんの申し出に私はとても驚いた。遠子さんから話そうと言われるなんて思ってもみなかったからだ。

「ええ。遠子さんさえ良ければ」

 遠子さんの目が少し和らいだので、微笑んだのだということが分かった。微笑まれることも初めてで、私は内心とても戸惑っていた。
 並んでベンチに腰かけたのはいいものの、二人の間には大人一人分座れるくらいの微妙なスペースが空いていた。

 至近距離で見ると、化粧をしていないせいもあるだろうが、少し小皺があった。でも遠子さんはそんなこと全然気にしていないようだった。その堂々とした様が、とても美しく見えた。遠子さんは気持ちよさそうに川辺の空気を吸い込んだ。

「あなたはコンサートに行くの?」
「……行くかどうか悩んでいます」
「どうして?」
「遠子さんとの約束を破ることになるかもしれないし……」

 私の言葉に遠子さんはとても驚いた表情をした。そして呆れたように大きくため息をつく。

「コンサートは会うことに入るのかしら。それに、私に黙って行けば分からないじゃない、私は行かないのだから」

 もっともな言い分だと思う。けれどそれを遠子さん自身に指摘されるとは思わなかったので、私は返答に困ってしまった。

「それに、洵と会ったとしても私はそれを確認しようがないし、仮に会っていることが分かってアマービレを辞めさせろと私が言ったところで、店の従業員たちが納得しないでしょう。あなたはとても頑張っていると噂で聞いたわ」

「いいのですか、そんなこと言って。会うなと言ったのは遠子さんじゃないですか」

「あなた達はとてもよく似ているのね。私が言った理不尽な約束を必死で守ろうとする」
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