ショパンの指先
遠子さんは遠くを見つめ、どこか悲しそうに言った。

「誓いや約束なんて、あってないようなものだわ。結婚だってそうよ。多くの人に祝福されて誓い合ったのに、ケロっとした顔で簡単にそれを破る。それなのに、どうしてあなた達は約束を守ろうとするの? 何も守らなくても、脅せばいいじゃない。旦那に全てバラすぞって。そうすれば私は何もできなくなる。どうしてそんなに馬鹿正直に理不尽な約束を守ろうとするの」

「それは……。そんなこと、したくないからです」

「綺麗ごとね。損な生き方だわ」

「そんなことない、私はいい人じゃないから綺麗ごとを言っているつもりはないです。正しい生き方も、正しい考え方も分からない。そもそも正しいと言い切れることがこの世の中にあるのでしょうか。私は基本、バレなきゃいいやと単純に思うタイプです。気付かれた後のことまで考えられる程、頭がいいわけでもない。遠子さんがとても嫌な女だったら、約束なんて頭からすり落ちて今頃忘れていたかもしれない。洵だって、遠子さんを裏切りたくなかったから、約束を破った後自分なりにケジメをつけたのだと思います」

「あなたは人を見る目がないのね。私はとても嫌な女よ」

「そうですね、旦那の稼いできたお金で洵を養っていたのだから。世間的には完全なる悪女でしょうね」

「はっきり言うわね」

 遠子さんは笑った。怒っているわけではないようだった。

「でも私は、何が正しいかなんて分からないから。なんとなく憎めないのです。あなたを見ていると悲しくなるからかもしれない」

「私が不幸そうに見える?」

「分からない。ただ、寂しそうには見えます」

 遠子さんは、ふっとため息を漏らすように乾いた笑いを浮かべた。
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