ショパンの指先
「う~ん、難しいですね。でもそんな掴みどころがないところが、天性の魅力なのかもしれませんね」

 司会者の言葉に洵は笑う。それにつられるように会場内も笑いが起こった。それなのに、私だけが笑っていなかった。貧血時のように、頭がフラフラする。

『これ、杏樹の曲』
と言いながら、楽しそうに仔犬のワルツを弾く洵の姿を思い出した。
『えっ!? なんで私の曲!?』
『俺のことバカみたいに追っかけてくるから』

 あの時の思い出が、つい昨日のように鮮明に思い出される。

 ……どういう意味で好きなタイプは仔犬のワルツみたいな女性と言ったのだろう。あの時、私に言ったことを覚えていての言葉だろうか。

 思い出すだけで熱いものが込み上げてくる。私のことを忘れていないと思うのは、自惚れすぎだろうか。洵も今でも同じ気持ちでいてくれていると思うのは、思い上がりだろうか。

 洵……。今すぐ立ち上がって、私はここにいると叫びたい。

「杏樹」

 声を掛けられて、私はハッとして顔を上げた。いつの間にか周りがガヤガヤと騒々しく立ち上がっている。

「二十分の休憩だから、コーヒーでも飲みにいかない?」

「ああ、うん、行く」

 優馬の後に続いて立ち上がり、コンサートホールを出ると、紙コップ式の自動販売機でコーヒーを買ってそのままエントランスの椅子に並んで腰掛ける。

 ブラックコーヒーを一口飲むと、不思議と気分が和らいだ。トイレには長蛇の列ができており、女性たちの止まらぬ話し声がエントランスまで響いていた。

「あのさ、さっき洵が言っていた仔犬のワルツみたいな女って……」

 優馬は途中で言葉を途絶えさせ、私の顔を見ると「いや、なんでもない」と言って正面に向き直りコーヒーを啜った。私も黙ってコーヒーを啜る。
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