ショパンの指先
その『葬送』を洵は第一楽章から丁寧に弾いていった。観客たちは、前半の溢れ出るような情熱の力強さから一転して、陰の部分の洵の深い精神性と表現できるレパートリーの広さに驚いていた。

そうだ。洵はただかっこ良く情熱的で色っぽい曲が弾けるだけの男ではない。見た目からは想像もできないような闇や弱さも抱えている。それらを乗り越えて一層ピアニストとして花開いた今、昔の締め付けるような孤独感は自然と洵の中に溶け込まれ、彼の表現する音楽に深みを持たせている。

全てが必然だった。洵にとって辛い過去も息苦しい思い出も、彼の音楽に説得力を持たせるための、逃げてはいけない経験だった。

洵はそれから、『別れの曲』や『ノクターン第13番』などしんみりとした切ない曲を弾いていった。ロマンチックで哀感漂う演奏に胸を締め付けられ、観客席の至る所から鼻を啜る音が聞こえられた。

あっという間に時が過ぎ、いよいよ最後の曲のみとなった。

洵はピアノに付けられているマイクに顔を近付け、おもむろに言葉を吐き出した。ステージ上にスポットライトが当たっているだけの暗闇の中で、洵の声が艶めかしく響いた。

「最後の曲となりました」

 重々しい口調で洵が言うと、会場内からは残念がる空気がひしひしと感じられた。

「この曲は俺にとって、特別な曲です。思い出が強く残りすぎて、この一年間演奏することから逃げてきました。今日、プログラムに入れるのも最後まで悩み続けました。正直、この曲をこれから演奏するのだと思うと、指が震えます。それくらい思い入れがある曲です」

 思い出の曲? 確か、パンフレットに載っていた最後の曲は……。

「聴いてください。雨だれのプレリュード」

 美しいメロディーが響き渡っていく。どうしたらこんな綺麗な音色が出せるのだろうと思うほど、音が澄んでいる。

『どうしたらこんな綺麗な音が出るの?』

 私はあの痺れるような一夜で言った自分の言葉を思い出した。洵と結ばれて、恋人同士のように甘い言葉を囁きあったあの日。洵に後ろから抱きつかれながら、一緒に弾いた思い出の曲。
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