辺境の魔法使いリュリュとケット・シーの秘密
【第一章】ネコとりんごあめ
【1】
それは、夏祭りの夜の出来事。
りんごあめを手に持たせて、ここに座っていればもうすぐ花火が見えるとおかあさんは言う。
「いい子にしてるのよ」
そう言って、頭も撫でてくれた。
滅多にないことだったから、嬉しくて、自分で自分の頭を触りながら、おかあさんが戻って来るのをじっと待つつもりだった。
「うーんと……君は、いつまでそこに座っているのかな?」
どこかから、声をかけられるまでは。
「うん、君だよ、そこの君」
「……わたし?」
誰の声だろうと、辺りを見回してみるけれど、人の姿は見当たらない。
「あまり長いことそこにいられると、僕が帰れないんだよねぇ……」
「…………ネコ」
視界に映るのは、なぜか二本足で立っていて、首にスカーフのような布を巻きつけた、黒と白のハチワレ猫だけだ。
「えっと……しゃべった? ネコが?」
うっかり口にして、いやいやと首を何度も振る。
それだと夢見がちなちょっと残念な子扱い確定だ。
おかあさんだって、バカな子だと、怒って戻って来てくれなくなるかも知れない。
「僕ね、イチイの実の成った枝をちょっと取りに来ただけなんだよ。だからそろそろ帰らなくちゃいけないんだけど」
だけど、やっぱり、どう見てもしゃべっているのは、目の前のネコだ。
のんびりとした口調とは裏腹に、タンタンと何度も足を踏み鳴らしたそのネコは、多分、きっと、だいぶイライラとしている。
しかもこちらが何かを言うよりも早く、いきなり膝の上に飛び乗ってきたのだ。
「えっ、なんで⁉」
「うーん……見えないとは思うんだけど、僕はこれでもリンデロート国の偉大なる魔法使い、ロセアン・セランデルって言う名前があってね」
聞いたこともない国の名前に、魔法使いなどと言う単語に、一度で覚えられない名前。
こう言うのをなんて言うんだっけ……?
――中二病。そう、中二病だ。
別名「他の人とは違う私(俺)ってすごくない?」病とも言うらしい。
図書館にあった、冒険ものの本で読んだ。
思春期である中学二年生頃の少年少女が取りやすい言動だ、とかなんとか。
自分がその年齢になるのにはまだ何年かあるけれど、大半の真面目に生きている中学二年生に対して大変に失礼だとその時に思った。
うん、きっとおかあさんを待ちくたびれて疲れたんだ。
そう思うことにしよう。
瞬きしたら、自分はまたりんご飴を持って、日が暮れた夏祭り中の境内で、おかあさんを待っている。
ううん、ひょっとしたらもう目の前に立っているかも知れない。
一緒に花火を見ようと言えば、笑って隣に座ってくれるだろう。
「いやいや、ちょっと待ってね⁉ なにげに僕をディスってるのはさておいても、君、さっきからどのくらいここに座っているか分かってる?」
……どうやら内心のひとりごとが、声に出ていたらしい。
と言うか「ディスってる」って、何?
そう思いながらも、どのくらいここにいるのかと真顔で聞いてくるネコにつられたのか、思わず空の星を見上げてしまう。
「……あの星、あっちからそっちに動いた、かも」
「うん、二時間くらいたってるね」
即答されてしまった。
「いい子にしてなさいって、おかあさんが」
「君のお母さんとやらは、一人でいなくなった?」
「ううん。知らない男の人と一緒だった」
「それは……困ったね」
もしかして帰って来ないんじゃないか? と、視線を下に落としたネコが、そんなことをブツブツと呟いている。
「あのね。実は僕、君がもたれているその木の向こう側から来たんだけどね?」
「向こう側」
「君がそこにいると帰れないんだよ、僕」
木の向こう。
それなら裏に回ればいいんじゃないかと思ったものの、ネコの様子からすると、どうやら違うらしい。
「どけばいい?」
「まあ、そうだね」
ネコはそう答えたものの、何だかちょっと怖い顔になっている。
「……君、お母さんとやら以外の家族は?」
「知らない。ケンカして家を飛び出したって言ってたの聞いたことあるし。誰とも会ったことない」
しかも更に「あああ……」とか言いながら、器用に頭を抱えだした。
「とはいえ、迷子だとかってどこかに届けるような時間もないし……ああっ、もう、しようがない! うん、君、僕と一緒に木の向こう側に行こうか!」
「…………えっと」
いきなり何を言い出しているんだろう、このネコ。
多分、絶対顔にも出ていたはずだけど、ネコの方はそれを全く気にもしていなかった。
「あのさ、断言してもいいけど、君のお母さんとやらは、もうここには戻って来ないよ。他に一緒に住んでくれる人も、家族にも心当たりがないのなら、こんなところにいたってしょうがないでしょ、君?」
「……戻ってこない」
「ホントはある程度自分でもそんな気がしてるよね?」
「…………」
いじわるだ、と思った。
可愛いネコの顔をしているのに。
「このまま帰っちゃったら、ああ、あの子野垂れ死にしてないかな……? とか、僕が心残りじゃないか」
そう言いながら、今度は地面じゃなく、乗っている足の上をたしたしと叩いている。
「……えっと」
「まあ、ないと思うけど、万が一にも億の一にも、母親が戻って来たらそれが分かるように、魔力をちょびっと残しておくことくらいは出来るよ」
「…………まりょく」
「ほら、僕ってば何しろ『偉大なる魔法使い』なわけだから」
どうにもエラそうだ。ネコなのに。
だけど、よほどの「木の向こう側」に行きたくて、そこに行くのは怖いコトじゃないとアピールしたいのかも知れない。
「…………おかあさん、迎えに来たら分かる?」
「その髪留めを置いていけば、何とかなるよ。人間の行き来となるとアレコレ条件が大変だけど、気配を繋ぐくらいなら、まあ何とか出来るんじゃないかな」
優秀なんだよ、僕? と、首を傾げるネコ。
どうしたらいいんだろう――と、思ったところで、くるくるとお腹が鳴ってしまった。
「……うん、まあ、その手にしているリンゴも食べずに待ってたなら、そうなるだろうね」
「リンゴじゃなくて、りんごあめ」
「細かいね。要はお腹が空いたんだろう?」
こくりと頷く。
食べたい。でも、せっかくおかあさんがくれたのに。
半分こにしたかったのに。
「なんだか誘拐犯か変質者みたいで納得いかないところはあるけど……うん、しょうがない。僕よりもエライ人の家でごはんを出してあげるから、一緒に向こうに行くよ!」
はい、決定!
そう叫んで、すたっと乗っていた足の上から地面に降り立つネコ。
「ほら、くるっと後ろを向いて、一歩後ろに下がる!」
声といきおいに負けて、思わずその通りに身体が動いてしまった。
その間に、ネコがいつの間にか足元まで移動してきている。
「…………おかあさん」
ちょっぴり不安になって、一度だけそう呼んでみた。
だけど、それに応えてくれる声が返ってくることはなかった。
「そう言えば、君、名前は?」
聞いてきたネコに答えようとして、急に目の前が真っ白になった。
(あれ?)
そう言えば。
わたしの名前って――なんだっけ?
【2】
「ロシー……君、いつから幼女趣味になったんだい。いくら王都で婚約をせっつかれたからって、そんな小さな子を無理矢理攫ってくることはないだろう」
ここは誰、私はどこ。
ううん、ちょっと落ち着かなきゃ。
パチパチと瞬きをしてみる。
そうすれば、二本足で立って喋るネコはいなくなって、元の夏祭りの風景に戻っているはずだった。
「幼女趣味⁉ 真顔で失礼な発言をしないでくれよ、ラース! 姿を見られたうえに界渡の扉がもう閉じそうで、あれこれ隠蔽する時間がなかったんだよ!」
何故かそこは小学校の校長室のような部屋で、高級そうな机の向こうには、眩しいくらいの空の色の髪と瞳を持っている男の人が、組み合わせた両手の上に軽く顎を乗せた恰好で、こちらの様子をうかがっていた。
そして机の上には――さっきのネコ。
「それにしたって、界渡はあくまで別の世界とこちらの世界を繋ぐためだけの道。同じ時間、同じ場所に繋ぎ直すことは至難の業だろうに……どうするんだい」
「いや、それは……」
ネコを見る青年の顔も真剣で、答えるネコの声も態度も真剣だ。
一瞬、夢でも見ているのかとさえ思った。
「…………あの」
ただその前に、聞き流すにはとても無視できない言葉を聞いてしまったために、かろうじて声が出ただけだ。
そうでなければ、絶対に夢だと思って目を閉じて横になるくらいはしたはずだ。
「さっき、おかあさんが探しに来たら分かるって言った……」
言ったのは、ネコなんだけど。
疑われるだろうか。でも。
――同じ時間、同じ場所に繋ぎ直すことは至難の業。
確かに、そう聞こえた。
どういうことだろう。
こちらはそんなに大きな声じゃなかったはずだけど、二人がたまたま話をしていなかったタイミングに重なれば、声だって響く。
視線が一斉に、こちらを向いてしまい、思わずビクッと身体を震わせてしまった。
「あー……」
ネコの尻尾が不規則に揺れて、時折机の上にある紙を叩いている音が聞こえる。
説明に困っている、と全身で主張しているようにも見えた。
「気配だけなら分かるんだよ。気配だけなら……ね」
嘘は言っていない、とネコは言う。
「ロシー……」
ただ、机の向こう側にいる男の人が、とてもアヤシイものを見る目でネコを見据えている。
この場合、疑っていると言った方が、きっと正しい。
じっと見つめられたネコは、慌てたように二本足で立ち上がって、わたわたとヘンな動きをしはじめた。
「いや、ホントだってラース! だってさ、母親がこの子放って、実の父親じゃないらしい男とどこかに行った――みたいなコトを聞かされて、放っておける⁉ 後ろめたくて寝られなくなるって断言できるね!」
「いや……だとしても、当の子供の前で言うことか……?」
うん。分かった。
こっちの、ネコじゃない男の人の方が、どう考えても色々とまともだ。
バチっと目が合った途端、その人は困ったように笑ったのだから。
「すまなかったね。ビックリしただろう?」
「……した」
だからこちらも、素直に頷いておく。
「あー……ラース、ごめん、とりあえずその子にすぐ食べられそうな何か出してやってくれないかな。夕食も出されずに、手に持ってるリンゴだけで放っておかれてたみたいでさ」
「りんごあめ」
「はいはい、りんごあめ。そこ、こだわるんだ」
「りんごあめとリンゴ、全然違うから」
「ああ、確かになんか固まってるね」
そう言って、りんごあめをじっと見ているネコに、机の向こうにいる青年が、ごほごほと咳払いをして「ロシー」と話しかけていた。
「話が逸れている、ロシー。その子に食事を、と言う話じゃなかったかな?」
「……そうだった。話なら、食事をしながらでもいいよね? ここは王宮でもなんでもないんだから」
「まあ、それはそうなんだが」
「そもそも、僕が別の世界から連れてきているんだから、間者もなにも疑いようがなくないか?」
「たとえそうだとしても、最初の警戒を怠るわけにはいかないのが辺境伯というものだよ」
うぬぬ……と、ネコが顔をしかめてしまったのは、きっと言い返せないからに違いない。
不本意、と顔に書いてあるように見えたくらいだ。
だけどこの人が、ネコが言っていたところの「自分よりもエライ人」なんだろうな、というのは子供心にも理解が出来た。
そして、そう思ってしまったからだろうか。
またしてもお腹がくるくると鳴ってしまったのだ。
エライ人の前なのに……。
恥ずかしくなってうつむいてしまった頭の上に、クスリと軽い笑い声が降ってきた。
「なるほど、お腹が空いているのは間違いなさそうだ」
「だろう⁉」
なんだか本人よりも、間で叫んだネコの方がエラそうだ。
「では、ちょっと食堂へ行こうか。仕事もちょうど落ち着いたところだったから」
そう言った男の人は、机の上にあった持ち手のある呼び鈴を手にして、軽く左右に何度か振った。
ちりりん、と風鈴にも似た澄んだ音がそこからは聞こえてきて、その音が消えるか消えないかといったところで、たまにマンガで見る、執事風の洋服を着た男性が部屋の中へと入ってきた。
「お呼びでございますか、旦那様」
「すまないな、ソランド。ロセアンが素材採取に行った先で子供を保護してきた。どうやら親の所在もハッキリしないようだから、しばらくはここで預かることになりそうだ。先に食事と、あとどこか適当に空いている部屋を提供してやってくれ」
空色の髪の「旦那様」とは違って、こちらは夕日のような髪の色をした人だ。
どっちにしても見慣れない色で、思わず何度も目をパチパチと閉じたり開いたりしてしまう。
すると、そんな仕種がおかしかったのかも知れない。
夕日色の髪の男性がふわりと笑った。
「……なるほど、悪意は感じませんね」
「後で保護した状況を確認して、魔力測定もさせるつもりではいるが、どうやらしばらく食事が取れていなかったようだから、先に厨房に行って、すぐに出せそうな料理を見繕っておいてくれ」
「承知いたしました」
そう言って一礼した男性が、再び部屋を出て行った。
そしてそれに合わせるかのように、空色の髪の「旦那様」も机から離れて、こちらに向かって歩いてきた。
よく見れば、世の中の「お父さん」が会社に行くよりも、もっと高そうな服を着ている。
「……さて」
ネコの方も、机の上からひらりと下りている。
そんなネコの隣で、空色の髪の「旦那様」は片膝をついて、こちらに右手を差し出してきた。
「食堂まで、君を抱き上げていきたいんだけど、構わないかな」
「……え」
「君の足だと、ちょっと食堂は遠くてね。だから私が君を運んで行こうと思う。ロシー……このネコにはさすがに無理だし、だからと言っていきなり魔法で浮かされでもして、酔ってしまったら食事どころではなくなってしまう」
う、なんてネコが呻いているのが聞こえたところからすると、もしかしたら図星を刺されたのかも知れない。
「毎回は運んであげられない。今日は特別サービスだ」
「とくべつ」
アヤシイ人にはついて行ってはいけません、なんて学校では言われたりするけれど。
けれどそれは、変に親切にされるよりもずっと納得のいく言葉のような気がした。
それよりなにより、もうお腹はペコペコだ。
うん。ネコだっているし。きっと悪いひとじゃない。
今日は、目の前のこの手を取ろう。
そう思って小さな手をおずおずと差し出すと、とても嬉しそうな笑顔が帰ってきた。
「では行こうか」
そして、ふわりと身体が持ち上げられた。
【3】
空色の髪の「旦那様」はラース・エストルンドさん。
夕日色の髪の男性は、本当に執事さんらくしくて、名前はソランドさん。
ネコは……ロセアン、としか覚えていなかったせいか「ロセアン・セランデル、偉大なる魔法使いなんだよ、だから⁉」って、再度力説していた。
「覚えられなかったら、ロシーでいいと思うよ」
ただ、横から「旦那様」にすげなくそう言われて、ちょっとヘコんでたけど。
テーブルの上に乗って丸まってしまったのは、きっと嫌がらせだ。
だって普通は動物が食事のテーブルに乗ったら、こっぴどく叱られる。
「ロシーは天才肌でちょっと、いや、だいぶ説明が下手だからね。私から、ここのことを少し説明しておこうか」
食堂にいる他の人たちは、慣れているのかネコに対して誰一人構うことをしない。
結果、どこかのレストランと言ってもいいくらいの広さがある食堂で料理が出来上がるのを待つ間、足が床まで届かない椅子に座って、ひとり説明を聞くことになった。
「ここはリンデロートと言う国にある、レヴネルと言う街でね。私はここを中心にいくつかの街や村を統治しているんだ」
住んでいた街の、知事みたいなものなのかな……と思ったものの、それが正解なのかどうかはよく分からない。
そもそも国の名前だって聞いたことがないわけで。
とりあえず目の前のこの人は、お屋敷では「旦那様」でも、それ以外では周りからは「辺境伯」と呼ばれている人で、それなりに有名らしいということは分かった。
ソランドさんはお屋敷で働いているから、辺境伯様ではなくて旦那様と呼ぶのだそうだ。
「ロセアン様を見倣ってはいけませんよ? 辺境伯様とお呼び出来るようになった方がいいでしょう」
「エライ人だから?」
「そうです」
にこにことソランドさんが笑っているから、きっとそれが正解なんだろう。
何となく、この中の誰よりも逆らっちゃいけない空気を感じるので、気を付けようと思う。うん。
「相変わらず、僕に対してのあたりがキツイなぁ、ソランドは」
たしたしと、ネコの尻尾がテーブルを叩いていた。
……どうやらネコの方は不満らしい。
「私の主は旦那様ですので」
ソランドさんの方はまったく動じていないみたいだけれど。
「はいはい、二人ともそこまでにしてくれ」
人とネコで二人――とは、誰も疑問に思わないようだ。
空色の髪の「旦那様」――えっと、辺境伯様が、軽く二度ほど手を叩くと、ネコもソランドさんもそのまま静かになった。
「ところで、君の名前は? 言えるかい?」
どうやら辺境伯様の目には、幼稚園児以下くらいに映っているらしい。
失礼な。もう十歳なのに。
名前だって言えるし…………あれ、名前?
「名前…………なんだっけ」
「!」
思わず呟いてしまったけど、この部屋のみんなを驚かせるには充分だったらしい。
辺境伯様は目を丸くしているし、ネコとソランドさんはその場でピシリと固まっていた。
「あー……ロシー?」
目元をぐりぐりと揉みはじめた辺境伯様に名前を呼ばれたせいか、ネコは、背筋と尻尾をその場でピンッと立てていた。
「いやぁ……もしも界渡でこっちに馴染むのに魔力付与とかが行われたんなら、代わりに記憶の一部が持っていかれた可能性も、あったりなかったり……?」
何の話をしているのか、さっぱりだ……と思っていると、辺境伯様はもの凄く大きなため息をついて、今度は片手で額を覆う仕種を見せていた。
「ロシーの話はさておいても……今の君は、名前が分からないと言うことでいいのかな?」
そしてネコに聞くことを諦めたのか、こちらを向いた辺境伯様の目は疑っているようには見えなかったので、問われて素直に頷いておく。
「父親や母親のことは? 何か覚えてる?」
おとうさんのことは、もっともっと小さい頃にいなくなったと聞いている以外、もとから記憶はあいまいだ。
おかあさんは――えっと、顔は分かるんだけどな。
正直にそう言うと「そうか」とだけ辺境伯様は答えた。
「とりあえず食事も来たことだし……続きは食べながらにしようか」
辺境伯様がそう言ったのと同時に、いい匂いが食堂の中にふわりと広がった。
その瞬間、みんながどんな表情をしていたのか、なんてことはすっかり頭の中からは追いやられてしまった。
パンだな、スープだな、何かのお肉っぽいな……くらいまでは分かったんだけど、家やファミレスでは見たことのない料理ばかりがテーブルに並べられた。
だけどおなかは空くし、辺境伯様が「大丈夫だよ」と言って自分も口にしたから、とりあえず同じように食べてみることにしたのだ。
「…………おいしい」
空腹は何よりの調味料だ、とテレビだったかマンガだったかで、見たか聞いたかしたことがあったんだけど、本当にその通りだなと思った。
あれもこれもと、つい手が伸びてしまう。
「それは良かった。好きなだけ食べるといい」
一度にそんなに食べられるわけじゃないけど、それでも、おなかいっぱいになるまで食べていいと辺境伯様は笑った。
ソランドさんは、料理の乗ったお皿を出したり、空になったお皿を下げたりしているだけで、それを食べることはないのだけれど、こちらの視線に気付いたのか「屋敷の使用人は後からいただくものなんですよ」とだけ、説明してくれた。
そう言えば、ネコはどうするんだろう――と思ってチラ見をすれば、同じ材料で細切れになった料理がお皿に入って出されていて、辺境伯様とは対照的に、ガツガツとそれを食べていた。
「まあ、見た目はそんなのでも、もともと人だからね。普段から我々と同じ食事をとっているよ」
ネコとは違って優雅な仕草で、多分おなかいっぱいは食べていないだろうけど、食事の手を止めた辺境伯様は、そんな風にこちらに話しかけてきてくれた。
「にんげん……」
言葉を話すくらいだから、中身は人なんだと言われれば、そうなのかも知れない。
一応はその場で納得しかけたんだけど、辺境伯様は「ちょっと違う」と言った感じで、首を横に振った。
「言い方が悪かったかな。ちゃんと、人の姿形をしていた時期もあったんだよ。だからカトラリーを使おうと格闘した時期もあったんだが、何せその見た目だ。最近は諦めているようだ」
「プライドを気にしていたら飢え死にだって、学習したんだよ!」
辺境伯様の言葉に、ネコが声を荒げて言い返している。
もともと、人間。
どういうことだろうと首を傾げると、辺境伯様の優しい瞳とぶつかった。
「うん。彼は王族の身代わりでちょっとした呪いを受けてしまってね。少し前から、その姿のままなんだよ」
――口から出た言葉は、ちっとも優しくはなかったんだけれど。
【4】
「…………呪い」
何だか物騒な単語だな、と思ってしまったのが表情に出たのか、辺境伯様は「うつるものでもないから、気にしなくていい」と、笑って片手を振った。
「ここから遠く離れたお城で暮らしている、偉い人たちの間で『誰が一番偉いか』っていうケンカをしていてね。彼はそのとばっちりで、あんな姿になってしまったんだよ」
「偉大なる魔法使いなのに?」
「ぐっ……ごほっ、ごほっ!!」
思ったままを口にしたのがいけなかったのか、ネコが食事を喉に詰まらせていた。
辺境伯様が横を向いて笑っているみたいだから、そこまでダメなことは言っていないんだろう、きっと。
「庇うわけじゃないが、偉大なる魔法使いだから、あの姿に留まったとも言えるんだよ」
「……そうなの?」
「私だったら死んでいたかも知れないね」
辺境伯様は、言葉を飾らずにちゃんと説明をしてくれる。
ちょっとネコに対しては思うところもあるけれど、辺境伯様にそれを言うのは「八つ当たり」だろうと、子供心にも理解はしているつもりだった。
そのままおとなしく話を聞いていると、リンデロートと言うこの国では、どうやら「王様」が一番偉いらしい。
辺境伯様よりも、まだエライ人がいると言うことだ。
そんな今の王様をどうこうしてまで偉くなろうという人はいないらしいけど、今の王様が引退した後、誰が次の王様になるか――という争いごとは、しょっちゅう起きているんだよと、辺境伯様はかなり嚙み砕いた説明を、ゆっくりと聞かせてくれた。
自称「偉大なる魔法遣い」様は、次の王様に一番近いと言われている人を庇って、ネコの姿になってしまったんだそうだ。
それも、その姿で済んだことさえ、とても運が良かったんだよ――と。
「ちなみに、その『次の王に一番近いと言われている男』はコイツだ」
そう言葉を挟んだのはネコの方で、しっぽの先をピシりと辺境伯様に向けた。
「え……」
「単なる血筋の問題だよ。私は継ぐ気はないと宣言して、この地に来ている」
目を丸くする私に、肩をすくめる辺境伯様。
「それを信じていないヤツの方が多いけどな」
すかさずネコがツッコミを入れているけれど、何となくそれに関しては、ネコの発言の方が正しいんじゃないかと思えた。
何となくだけど。
「まあ、その話は今はいいだろう。肝心なのは今の姿形から、元の姿へと戻る薬を彼はずっと研究していてね。日頃から薬の材料を探しに色々なところへ出かけているんだが……その内の一ヶ所が、君の住んでいるところだったと、そういう訳なんだよ」
頭の中を一瞬、子どもの姿にさせられた高校生探偵が、一時的に元に戻る薬を手に入れて飲むシーンがよぎった。
あれは呪いじゃないけれど、イメージとしてはそういうことなんだろうなと、ひとりで勝手に納得をしておく。
辺境伯様の話に、ネコもうんうんと頷いていた。
「もう、国中探し回っても、なかなか効果的な素材が見つからなくてさ。それでちょっと範囲を広げた結果が、あそこだったんだよ」
偉大なる魔法使い様は、違う世界にでも探しにいける力があるのだと、要はそういうことらしかった。
「そして、一人で戻って来ればいいものを、なぜか君が一緒だった」
「あんなところで二時間も待っていれば、もう充分だと思ったんだよ!」
辺境伯様の呆れた声に、ネコが反論をしている。
二時間。
確かに「いい子にしているのよ」とは言っていたけど、いつ戻ってくるとは、おかあさんは言わなかった。
二時間は……長いんだろうか。
「ごめんね。それで、ちょっと君に提案があるんだ」
考え込んでいると、ふと、辺境伯様の声がそれまでの柔らかかった声から変化していた。
思わず、さっきのネコみたいに背筋をピンと伸ばしてしまう。
「ああ、いや、怖がらなくてもいい。この世界の住人は、皆、大なり小なり魔力を持っていてね。だから生まれた時に役所で検査を受ける。どんな種類の魔力を、どのくらいの量持っているか……とね。それを君にも受けて欲しいと思ってね」
「……検査」
「痛いこともしない。ただ、専用の石に少しの間手をかざすだけだから。そうすれば、もしかしたら自力で戻れるほどの力があるかも知れないし、ダメならどうしたらそこに近付くことが出来るか、考えていくことが出来る」
「……『偉大なる魔法使い』様は、出来ない?」
ちょっと小首を傾げてみれば、ネコはぺしゃんとテーブル上に突っ伏していた。
「場所は特定出来るんだよ、場所は! 母親が来れば気配も分かる。けど、あの日あの時間に空間を繋げられるかと言われたら、この姿での魔力だと……」
突っ伏して、そしてうんうん唸って頭を抱えている。
戻ったはいいけど、実は何十年もたっていて、おかあさんはもう天国に行っちゃってた――なんて、可能性もあるらしい。
そこまで行くと、今度は亀じゃなく、ネコに乗って竜宮城から戻る自分が頭をよぎる。
玉手箱を渡されても、貰わないようにしないと。うん。
「まあ……そんなわけだから」
辺境伯様の声にハッと我に返ったら、いつの間にか唸っているネコの頭を、辺境伯様が笑顔で上から手で押さえつけていた。
「いだだだだっ⁉」
しかもネコの悲鳴と抗議は、まるっと無視している。
「ロシー……今はこんなケット・シーの姿だが、確かに人間に戻れば君を帰せる可能性が一番高くなるね。特に君にもしそれなりの魔力があったとしたら、コレの助手でもしながら帰る方法を探すって言う選択肢も出て来ると思うんだよ」
「助手⁉」
叫んだのは、もちろんネコ。
辺境伯様は、まったく取り合っていない。
「帰れるとなれば助力は惜しまないし、もちろんしばらく暮らしてみて、君が元いた世界よりこちらがいいとなったら、私の権限で住民登録くらいは出来る。そもそも、何時間待たされていようと、君の意思を確認せずにこちらに連れて来た方が悪いのだから、君が望むことを、基本的には拒否しないよ」
犯罪行為にさえならなければね、と、辺境伯様は最後に片目を閉じた。
「魔法……使えるんですか?」
魔力があるかも知れない、と言うからには魔法が使える可能性もあると言うことだろうか。
大きなリボンを頭に乗せて、箒に乗って空を飛びまわる姿をうっかり想像してしまう。
その瞬間だけは、二時間「誰も迎えに来なかった」と言う事実を忘れることが出来た。
「魔力があればね」
それを調べに行くんだよ――と辺境伯様は笑い、聞いてしまえば答えは一つだった。
「調べに行きたいです」
「うん。いい返事だね。では、そうしようか。……ソランド」
辺境伯様の声に「は。馬車の用意を致します」との声が部屋の隅から返ってきた。
食堂の扉が開いて、すぐにまた閉まる。
そうしてソランドさんが出ていったのを見届ける形で、辺境伯様が「ふむ……」と、口元に手をあてた。
「廃村寸前だった村で暮らしていた子供が保護された、ということにでもして……あとは魔力測定と登録のための名前……名前か……」
単語の欠片でも覚えはないのか、と聞かれたけれど、本当に欠片も思い出せないのだ。
正直にそう答えると、辺境伯様は困ったように悩みはじめた。
「髪……瞳……リュウの色とは言え、女の子となると……うん、じゃあとりあえず、リュリュにしようか。いいかい? ここでの君の名前は〝リュリュ〟だ」
「リュリュ」
「元の名前を少しでも思い出して、違和感を感じたなら自分で変えればいい。とりあえず今は、役所で魔力測定をするのに名無しってわけにはいかないから、リュリュだ。誰かに由来を聞かれたら、髪と瞳の色から付けられたと言えば、大抵は納得するから」
どうやら、リュウと言うのがこの国での黒っぽい色を指すらしい。
一瞬、中二病の単語が頭に浮かんだけれど、多分この国の人たちからすると、日本語っぽい名前の方が浮いてしまうんだろうから、ここは受け入れるしかないんだろう。
日本……日本語……あれ、なんで通じているんだろう。
測定をして貰わないと何とも言えないけれど、もしかしたら、その「魔力」と言うのが言葉にも関係してきているのかも知れない。
「じゃあ行こうか、リュリュ」
魔力があれば、魔法が使える。
魔法が使えれば、空が飛べる。
たくさんの魔力があれば、魔法で元の世界へ戻れる可能性が広がる。
「……行きます」
いつの間にか、付いて行くのが当然とばかりにネコが肩の上に飛び乗っていたけれど……師匠になるかも知れないと言っていたし、ここは何も言わないでおこうと思った。
どんな結果が出るんだろう――?
期待をしながら、差し出された辺境伯様の手に、自分の手をそっと乗せた。
それは、夏祭りの夜の出来事。
りんごあめを手に持たせて、ここに座っていればもうすぐ花火が見えるとおかあさんは言う。
「いい子にしてるのよ」
そう言って、頭も撫でてくれた。
滅多にないことだったから、嬉しくて、自分で自分の頭を触りながら、おかあさんが戻って来るのをじっと待つつもりだった。
「うーんと……君は、いつまでそこに座っているのかな?」
どこかから、声をかけられるまでは。
「うん、君だよ、そこの君」
「……わたし?」
誰の声だろうと、辺りを見回してみるけれど、人の姿は見当たらない。
「あまり長いことそこにいられると、僕が帰れないんだよねぇ……」
「…………ネコ」
視界に映るのは、なぜか二本足で立っていて、首にスカーフのような布を巻きつけた、黒と白のハチワレ猫だけだ。
「えっと……しゃべった? ネコが?」
うっかり口にして、いやいやと首を何度も振る。
それだと夢見がちなちょっと残念な子扱い確定だ。
おかあさんだって、バカな子だと、怒って戻って来てくれなくなるかも知れない。
「僕ね、イチイの実の成った枝をちょっと取りに来ただけなんだよ。だからそろそろ帰らなくちゃいけないんだけど」
だけど、やっぱり、どう見てもしゃべっているのは、目の前のネコだ。
のんびりとした口調とは裏腹に、タンタンと何度も足を踏み鳴らしたそのネコは、多分、きっと、だいぶイライラとしている。
しかもこちらが何かを言うよりも早く、いきなり膝の上に飛び乗ってきたのだ。
「えっ、なんで⁉」
「うーん……見えないとは思うんだけど、僕はこれでもリンデロート国の偉大なる魔法使い、ロセアン・セランデルって言う名前があってね」
聞いたこともない国の名前に、魔法使いなどと言う単語に、一度で覚えられない名前。
こう言うのをなんて言うんだっけ……?
――中二病。そう、中二病だ。
別名「他の人とは違う私(俺)ってすごくない?」病とも言うらしい。
図書館にあった、冒険ものの本で読んだ。
思春期である中学二年生頃の少年少女が取りやすい言動だ、とかなんとか。
自分がその年齢になるのにはまだ何年かあるけれど、大半の真面目に生きている中学二年生に対して大変に失礼だとその時に思った。
うん、きっとおかあさんを待ちくたびれて疲れたんだ。
そう思うことにしよう。
瞬きしたら、自分はまたりんご飴を持って、日が暮れた夏祭り中の境内で、おかあさんを待っている。
ううん、ひょっとしたらもう目の前に立っているかも知れない。
一緒に花火を見ようと言えば、笑って隣に座ってくれるだろう。
「いやいや、ちょっと待ってね⁉ なにげに僕をディスってるのはさておいても、君、さっきからどのくらいここに座っているか分かってる?」
……どうやら内心のひとりごとが、声に出ていたらしい。
と言うか「ディスってる」って、何?
そう思いながらも、どのくらいここにいるのかと真顔で聞いてくるネコにつられたのか、思わず空の星を見上げてしまう。
「……あの星、あっちからそっちに動いた、かも」
「うん、二時間くらいたってるね」
即答されてしまった。
「いい子にしてなさいって、おかあさんが」
「君のお母さんとやらは、一人でいなくなった?」
「ううん。知らない男の人と一緒だった」
「それは……困ったね」
もしかして帰って来ないんじゃないか? と、視線を下に落としたネコが、そんなことをブツブツと呟いている。
「あのね。実は僕、君がもたれているその木の向こう側から来たんだけどね?」
「向こう側」
「君がそこにいると帰れないんだよ、僕」
木の向こう。
それなら裏に回ればいいんじゃないかと思ったものの、ネコの様子からすると、どうやら違うらしい。
「どけばいい?」
「まあ、そうだね」
ネコはそう答えたものの、何だかちょっと怖い顔になっている。
「……君、お母さんとやら以外の家族は?」
「知らない。ケンカして家を飛び出したって言ってたの聞いたことあるし。誰とも会ったことない」
しかも更に「あああ……」とか言いながら、器用に頭を抱えだした。
「とはいえ、迷子だとかってどこかに届けるような時間もないし……ああっ、もう、しようがない! うん、君、僕と一緒に木の向こう側に行こうか!」
「…………えっと」
いきなり何を言い出しているんだろう、このネコ。
多分、絶対顔にも出ていたはずだけど、ネコの方はそれを全く気にもしていなかった。
「あのさ、断言してもいいけど、君のお母さんとやらは、もうここには戻って来ないよ。他に一緒に住んでくれる人も、家族にも心当たりがないのなら、こんなところにいたってしょうがないでしょ、君?」
「……戻ってこない」
「ホントはある程度自分でもそんな気がしてるよね?」
「…………」
いじわるだ、と思った。
可愛いネコの顔をしているのに。
「このまま帰っちゃったら、ああ、あの子野垂れ死にしてないかな……? とか、僕が心残りじゃないか」
そう言いながら、今度は地面じゃなく、乗っている足の上をたしたしと叩いている。
「……えっと」
「まあ、ないと思うけど、万が一にも億の一にも、母親が戻って来たらそれが分かるように、魔力をちょびっと残しておくことくらいは出来るよ」
「…………まりょく」
「ほら、僕ってば何しろ『偉大なる魔法使い』なわけだから」
どうにもエラそうだ。ネコなのに。
だけど、よほどの「木の向こう側」に行きたくて、そこに行くのは怖いコトじゃないとアピールしたいのかも知れない。
「…………おかあさん、迎えに来たら分かる?」
「その髪留めを置いていけば、何とかなるよ。人間の行き来となるとアレコレ条件が大変だけど、気配を繋ぐくらいなら、まあ何とか出来るんじゃないかな」
優秀なんだよ、僕? と、首を傾げるネコ。
どうしたらいいんだろう――と、思ったところで、くるくるとお腹が鳴ってしまった。
「……うん、まあ、その手にしているリンゴも食べずに待ってたなら、そうなるだろうね」
「リンゴじゃなくて、りんごあめ」
「細かいね。要はお腹が空いたんだろう?」
こくりと頷く。
食べたい。でも、せっかくおかあさんがくれたのに。
半分こにしたかったのに。
「なんだか誘拐犯か変質者みたいで納得いかないところはあるけど……うん、しょうがない。僕よりもエライ人の家でごはんを出してあげるから、一緒に向こうに行くよ!」
はい、決定!
そう叫んで、すたっと乗っていた足の上から地面に降り立つネコ。
「ほら、くるっと後ろを向いて、一歩後ろに下がる!」
声といきおいに負けて、思わずその通りに身体が動いてしまった。
その間に、ネコがいつの間にか足元まで移動してきている。
「…………おかあさん」
ちょっぴり不安になって、一度だけそう呼んでみた。
だけど、それに応えてくれる声が返ってくることはなかった。
「そう言えば、君、名前は?」
聞いてきたネコに答えようとして、急に目の前が真っ白になった。
(あれ?)
そう言えば。
わたしの名前って――なんだっけ?
【2】
「ロシー……君、いつから幼女趣味になったんだい。いくら王都で婚約をせっつかれたからって、そんな小さな子を無理矢理攫ってくることはないだろう」
ここは誰、私はどこ。
ううん、ちょっと落ち着かなきゃ。
パチパチと瞬きをしてみる。
そうすれば、二本足で立って喋るネコはいなくなって、元の夏祭りの風景に戻っているはずだった。
「幼女趣味⁉ 真顔で失礼な発言をしないでくれよ、ラース! 姿を見られたうえに界渡の扉がもう閉じそうで、あれこれ隠蔽する時間がなかったんだよ!」
何故かそこは小学校の校長室のような部屋で、高級そうな机の向こうには、眩しいくらいの空の色の髪と瞳を持っている男の人が、組み合わせた両手の上に軽く顎を乗せた恰好で、こちらの様子をうかがっていた。
そして机の上には――さっきのネコ。
「それにしたって、界渡はあくまで別の世界とこちらの世界を繋ぐためだけの道。同じ時間、同じ場所に繋ぎ直すことは至難の業だろうに……どうするんだい」
「いや、それは……」
ネコを見る青年の顔も真剣で、答えるネコの声も態度も真剣だ。
一瞬、夢でも見ているのかとさえ思った。
「…………あの」
ただその前に、聞き流すにはとても無視できない言葉を聞いてしまったために、かろうじて声が出ただけだ。
そうでなければ、絶対に夢だと思って目を閉じて横になるくらいはしたはずだ。
「さっき、おかあさんが探しに来たら分かるって言った……」
言ったのは、ネコなんだけど。
疑われるだろうか。でも。
――同じ時間、同じ場所に繋ぎ直すことは至難の業。
確かに、そう聞こえた。
どういうことだろう。
こちらはそんなに大きな声じゃなかったはずだけど、二人がたまたま話をしていなかったタイミングに重なれば、声だって響く。
視線が一斉に、こちらを向いてしまい、思わずビクッと身体を震わせてしまった。
「あー……」
ネコの尻尾が不規則に揺れて、時折机の上にある紙を叩いている音が聞こえる。
説明に困っている、と全身で主張しているようにも見えた。
「気配だけなら分かるんだよ。気配だけなら……ね」
嘘は言っていない、とネコは言う。
「ロシー……」
ただ、机の向こう側にいる男の人が、とてもアヤシイものを見る目でネコを見据えている。
この場合、疑っていると言った方が、きっと正しい。
じっと見つめられたネコは、慌てたように二本足で立ち上がって、わたわたとヘンな動きをしはじめた。
「いや、ホントだってラース! だってさ、母親がこの子放って、実の父親じゃないらしい男とどこかに行った――みたいなコトを聞かされて、放っておける⁉ 後ろめたくて寝られなくなるって断言できるね!」
「いや……だとしても、当の子供の前で言うことか……?」
うん。分かった。
こっちの、ネコじゃない男の人の方が、どう考えても色々とまともだ。
バチっと目が合った途端、その人は困ったように笑ったのだから。
「すまなかったね。ビックリしただろう?」
「……した」
だからこちらも、素直に頷いておく。
「あー……ラース、ごめん、とりあえずその子にすぐ食べられそうな何か出してやってくれないかな。夕食も出されずに、手に持ってるリンゴだけで放っておかれてたみたいでさ」
「りんごあめ」
「はいはい、りんごあめ。そこ、こだわるんだ」
「りんごあめとリンゴ、全然違うから」
「ああ、確かになんか固まってるね」
そう言って、りんごあめをじっと見ているネコに、机の向こうにいる青年が、ごほごほと咳払いをして「ロシー」と話しかけていた。
「話が逸れている、ロシー。その子に食事を、と言う話じゃなかったかな?」
「……そうだった。話なら、食事をしながらでもいいよね? ここは王宮でもなんでもないんだから」
「まあ、それはそうなんだが」
「そもそも、僕が別の世界から連れてきているんだから、間者もなにも疑いようがなくないか?」
「たとえそうだとしても、最初の警戒を怠るわけにはいかないのが辺境伯というものだよ」
うぬぬ……と、ネコが顔をしかめてしまったのは、きっと言い返せないからに違いない。
不本意、と顔に書いてあるように見えたくらいだ。
だけどこの人が、ネコが言っていたところの「自分よりもエライ人」なんだろうな、というのは子供心にも理解が出来た。
そして、そう思ってしまったからだろうか。
またしてもお腹がくるくると鳴ってしまったのだ。
エライ人の前なのに……。
恥ずかしくなってうつむいてしまった頭の上に、クスリと軽い笑い声が降ってきた。
「なるほど、お腹が空いているのは間違いなさそうだ」
「だろう⁉」
なんだか本人よりも、間で叫んだネコの方がエラそうだ。
「では、ちょっと食堂へ行こうか。仕事もちょうど落ち着いたところだったから」
そう言った男の人は、机の上にあった持ち手のある呼び鈴を手にして、軽く左右に何度か振った。
ちりりん、と風鈴にも似た澄んだ音がそこからは聞こえてきて、その音が消えるか消えないかといったところで、たまにマンガで見る、執事風の洋服を着た男性が部屋の中へと入ってきた。
「お呼びでございますか、旦那様」
「すまないな、ソランド。ロセアンが素材採取に行った先で子供を保護してきた。どうやら親の所在もハッキリしないようだから、しばらくはここで預かることになりそうだ。先に食事と、あとどこか適当に空いている部屋を提供してやってくれ」
空色の髪の「旦那様」とは違って、こちらは夕日のような髪の色をした人だ。
どっちにしても見慣れない色で、思わず何度も目をパチパチと閉じたり開いたりしてしまう。
すると、そんな仕種がおかしかったのかも知れない。
夕日色の髪の男性がふわりと笑った。
「……なるほど、悪意は感じませんね」
「後で保護した状況を確認して、魔力測定もさせるつもりではいるが、どうやらしばらく食事が取れていなかったようだから、先に厨房に行って、すぐに出せそうな料理を見繕っておいてくれ」
「承知いたしました」
そう言って一礼した男性が、再び部屋を出て行った。
そしてそれに合わせるかのように、空色の髪の「旦那様」も机から離れて、こちらに向かって歩いてきた。
よく見れば、世の中の「お父さん」が会社に行くよりも、もっと高そうな服を着ている。
「……さて」
ネコの方も、机の上からひらりと下りている。
そんなネコの隣で、空色の髪の「旦那様」は片膝をついて、こちらに右手を差し出してきた。
「食堂まで、君を抱き上げていきたいんだけど、構わないかな」
「……え」
「君の足だと、ちょっと食堂は遠くてね。だから私が君を運んで行こうと思う。ロシー……このネコにはさすがに無理だし、だからと言っていきなり魔法で浮かされでもして、酔ってしまったら食事どころではなくなってしまう」
う、なんてネコが呻いているのが聞こえたところからすると、もしかしたら図星を刺されたのかも知れない。
「毎回は運んであげられない。今日は特別サービスだ」
「とくべつ」
アヤシイ人にはついて行ってはいけません、なんて学校では言われたりするけれど。
けれどそれは、変に親切にされるよりもずっと納得のいく言葉のような気がした。
それよりなにより、もうお腹はペコペコだ。
うん。ネコだっているし。きっと悪いひとじゃない。
今日は、目の前のこの手を取ろう。
そう思って小さな手をおずおずと差し出すと、とても嬉しそうな笑顔が帰ってきた。
「では行こうか」
そして、ふわりと身体が持ち上げられた。
【3】
空色の髪の「旦那様」はラース・エストルンドさん。
夕日色の髪の男性は、本当に執事さんらくしくて、名前はソランドさん。
ネコは……ロセアン、としか覚えていなかったせいか「ロセアン・セランデル、偉大なる魔法使いなんだよ、だから⁉」って、再度力説していた。
「覚えられなかったら、ロシーでいいと思うよ」
ただ、横から「旦那様」にすげなくそう言われて、ちょっとヘコんでたけど。
テーブルの上に乗って丸まってしまったのは、きっと嫌がらせだ。
だって普通は動物が食事のテーブルに乗ったら、こっぴどく叱られる。
「ロシーは天才肌でちょっと、いや、だいぶ説明が下手だからね。私から、ここのことを少し説明しておこうか」
食堂にいる他の人たちは、慣れているのかネコに対して誰一人構うことをしない。
結果、どこかのレストランと言ってもいいくらいの広さがある食堂で料理が出来上がるのを待つ間、足が床まで届かない椅子に座って、ひとり説明を聞くことになった。
「ここはリンデロートと言う国にある、レヴネルと言う街でね。私はここを中心にいくつかの街や村を統治しているんだ」
住んでいた街の、知事みたいなものなのかな……と思ったものの、それが正解なのかどうかはよく分からない。
そもそも国の名前だって聞いたことがないわけで。
とりあえず目の前のこの人は、お屋敷では「旦那様」でも、それ以外では周りからは「辺境伯」と呼ばれている人で、それなりに有名らしいということは分かった。
ソランドさんはお屋敷で働いているから、辺境伯様ではなくて旦那様と呼ぶのだそうだ。
「ロセアン様を見倣ってはいけませんよ? 辺境伯様とお呼び出来るようになった方がいいでしょう」
「エライ人だから?」
「そうです」
にこにことソランドさんが笑っているから、きっとそれが正解なんだろう。
何となく、この中の誰よりも逆らっちゃいけない空気を感じるので、気を付けようと思う。うん。
「相変わらず、僕に対してのあたりがキツイなぁ、ソランドは」
たしたしと、ネコの尻尾がテーブルを叩いていた。
……どうやらネコの方は不満らしい。
「私の主は旦那様ですので」
ソランドさんの方はまったく動じていないみたいだけれど。
「はいはい、二人ともそこまでにしてくれ」
人とネコで二人――とは、誰も疑問に思わないようだ。
空色の髪の「旦那様」――えっと、辺境伯様が、軽く二度ほど手を叩くと、ネコもソランドさんもそのまま静かになった。
「ところで、君の名前は? 言えるかい?」
どうやら辺境伯様の目には、幼稚園児以下くらいに映っているらしい。
失礼な。もう十歳なのに。
名前だって言えるし…………あれ、名前?
「名前…………なんだっけ」
「!」
思わず呟いてしまったけど、この部屋のみんなを驚かせるには充分だったらしい。
辺境伯様は目を丸くしているし、ネコとソランドさんはその場でピシリと固まっていた。
「あー……ロシー?」
目元をぐりぐりと揉みはじめた辺境伯様に名前を呼ばれたせいか、ネコは、背筋と尻尾をその場でピンッと立てていた。
「いやぁ……もしも界渡でこっちに馴染むのに魔力付与とかが行われたんなら、代わりに記憶の一部が持っていかれた可能性も、あったりなかったり……?」
何の話をしているのか、さっぱりだ……と思っていると、辺境伯様はもの凄く大きなため息をついて、今度は片手で額を覆う仕種を見せていた。
「ロシーの話はさておいても……今の君は、名前が分からないと言うことでいいのかな?」
そしてネコに聞くことを諦めたのか、こちらを向いた辺境伯様の目は疑っているようには見えなかったので、問われて素直に頷いておく。
「父親や母親のことは? 何か覚えてる?」
おとうさんのことは、もっともっと小さい頃にいなくなったと聞いている以外、もとから記憶はあいまいだ。
おかあさんは――えっと、顔は分かるんだけどな。
正直にそう言うと「そうか」とだけ辺境伯様は答えた。
「とりあえず食事も来たことだし……続きは食べながらにしようか」
辺境伯様がそう言ったのと同時に、いい匂いが食堂の中にふわりと広がった。
その瞬間、みんながどんな表情をしていたのか、なんてことはすっかり頭の中からは追いやられてしまった。
パンだな、スープだな、何かのお肉っぽいな……くらいまでは分かったんだけど、家やファミレスでは見たことのない料理ばかりがテーブルに並べられた。
だけどおなかは空くし、辺境伯様が「大丈夫だよ」と言って自分も口にしたから、とりあえず同じように食べてみることにしたのだ。
「…………おいしい」
空腹は何よりの調味料だ、とテレビだったかマンガだったかで、見たか聞いたかしたことがあったんだけど、本当にその通りだなと思った。
あれもこれもと、つい手が伸びてしまう。
「それは良かった。好きなだけ食べるといい」
一度にそんなに食べられるわけじゃないけど、それでも、おなかいっぱいになるまで食べていいと辺境伯様は笑った。
ソランドさんは、料理の乗ったお皿を出したり、空になったお皿を下げたりしているだけで、それを食べることはないのだけれど、こちらの視線に気付いたのか「屋敷の使用人は後からいただくものなんですよ」とだけ、説明してくれた。
そう言えば、ネコはどうするんだろう――と思ってチラ見をすれば、同じ材料で細切れになった料理がお皿に入って出されていて、辺境伯様とは対照的に、ガツガツとそれを食べていた。
「まあ、見た目はそんなのでも、もともと人だからね。普段から我々と同じ食事をとっているよ」
ネコとは違って優雅な仕草で、多分おなかいっぱいは食べていないだろうけど、食事の手を止めた辺境伯様は、そんな風にこちらに話しかけてきてくれた。
「にんげん……」
言葉を話すくらいだから、中身は人なんだと言われれば、そうなのかも知れない。
一応はその場で納得しかけたんだけど、辺境伯様は「ちょっと違う」と言った感じで、首を横に振った。
「言い方が悪かったかな。ちゃんと、人の姿形をしていた時期もあったんだよ。だからカトラリーを使おうと格闘した時期もあったんだが、何せその見た目だ。最近は諦めているようだ」
「プライドを気にしていたら飢え死にだって、学習したんだよ!」
辺境伯様の言葉に、ネコが声を荒げて言い返している。
もともと、人間。
どういうことだろうと首を傾げると、辺境伯様の優しい瞳とぶつかった。
「うん。彼は王族の身代わりでちょっとした呪いを受けてしまってね。少し前から、その姿のままなんだよ」
――口から出た言葉は、ちっとも優しくはなかったんだけれど。
【4】
「…………呪い」
何だか物騒な単語だな、と思ってしまったのが表情に出たのか、辺境伯様は「うつるものでもないから、気にしなくていい」と、笑って片手を振った。
「ここから遠く離れたお城で暮らしている、偉い人たちの間で『誰が一番偉いか』っていうケンカをしていてね。彼はそのとばっちりで、あんな姿になってしまったんだよ」
「偉大なる魔法使いなのに?」
「ぐっ……ごほっ、ごほっ!!」
思ったままを口にしたのがいけなかったのか、ネコが食事を喉に詰まらせていた。
辺境伯様が横を向いて笑っているみたいだから、そこまでダメなことは言っていないんだろう、きっと。
「庇うわけじゃないが、偉大なる魔法使いだから、あの姿に留まったとも言えるんだよ」
「……そうなの?」
「私だったら死んでいたかも知れないね」
辺境伯様は、言葉を飾らずにちゃんと説明をしてくれる。
ちょっとネコに対しては思うところもあるけれど、辺境伯様にそれを言うのは「八つ当たり」だろうと、子供心にも理解はしているつもりだった。
そのままおとなしく話を聞いていると、リンデロートと言うこの国では、どうやら「王様」が一番偉いらしい。
辺境伯様よりも、まだエライ人がいると言うことだ。
そんな今の王様をどうこうしてまで偉くなろうという人はいないらしいけど、今の王様が引退した後、誰が次の王様になるか――という争いごとは、しょっちゅう起きているんだよと、辺境伯様はかなり嚙み砕いた説明を、ゆっくりと聞かせてくれた。
自称「偉大なる魔法遣い」様は、次の王様に一番近いと言われている人を庇って、ネコの姿になってしまったんだそうだ。
それも、その姿で済んだことさえ、とても運が良かったんだよ――と。
「ちなみに、その『次の王に一番近いと言われている男』はコイツだ」
そう言葉を挟んだのはネコの方で、しっぽの先をピシりと辺境伯様に向けた。
「え……」
「単なる血筋の問題だよ。私は継ぐ気はないと宣言して、この地に来ている」
目を丸くする私に、肩をすくめる辺境伯様。
「それを信じていないヤツの方が多いけどな」
すかさずネコがツッコミを入れているけれど、何となくそれに関しては、ネコの発言の方が正しいんじゃないかと思えた。
何となくだけど。
「まあ、その話は今はいいだろう。肝心なのは今の姿形から、元の姿へと戻る薬を彼はずっと研究していてね。日頃から薬の材料を探しに色々なところへ出かけているんだが……その内の一ヶ所が、君の住んでいるところだったと、そういう訳なんだよ」
頭の中を一瞬、子どもの姿にさせられた高校生探偵が、一時的に元に戻る薬を手に入れて飲むシーンがよぎった。
あれは呪いじゃないけれど、イメージとしてはそういうことなんだろうなと、ひとりで勝手に納得をしておく。
辺境伯様の話に、ネコもうんうんと頷いていた。
「もう、国中探し回っても、なかなか効果的な素材が見つからなくてさ。それでちょっと範囲を広げた結果が、あそこだったんだよ」
偉大なる魔法使い様は、違う世界にでも探しにいける力があるのだと、要はそういうことらしかった。
「そして、一人で戻って来ればいいものを、なぜか君が一緒だった」
「あんなところで二時間も待っていれば、もう充分だと思ったんだよ!」
辺境伯様の呆れた声に、ネコが反論をしている。
二時間。
確かに「いい子にしているのよ」とは言っていたけど、いつ戻ってくるとは、おかあさんは言わなかった。
二時間は……長いんだろうか。
「ごめんね。それで、ちょっと君に提案があるんだ」
考え込んでいると、ふと、辺境伯様の声がそれまでの柔らかかった声から変化していた。
思わず、さっきのネコみたいに背筋をピンと伸ばしてしまう。
「ああ、いや、怖がらなくてもいい。この世界の住人は、皆、大なり小なり魔力を持っていてね。だから生まれた時に役所で検査を受ける。どんな種類の魔力を、どのくらいの量持っているか……とね。それを君にも受けて欲しいと思ってね」
「……検査」
「痛いこともしない。ただ、専用の石に少しの間手をかざすだけだから。そうすれば、もしかしたら自力で戻れるほどの力があるかも知れないし、ダメならどうしたらそこに近付くことが出来るか、考えていくことが出来る」
「……『偉大なる魔法使い』様は、出来ない?」
ちょっと小首を傾げてみれば、ネコはぺしゃんとテーブル上に突っ伏していた。
「場所は特定出来るんだよ、場所は! 母親が来れば気配も分かる。けど、あの日あの時間に空間を繋げられるかと言われたら、この姿での魔力だと……」
突っ伏して、そしてうんうん唸って頭を抱えている。
戻ったはいいけど、実は何十年もたっていて、おかあさんはもう天国に行っちゃってた――なんて、可能性もあるらしい。
そこまで行くと、今度は亀じゃなく、ネコに乗って竜宮城から戻る自分が頭をよぎる。
玉手箱を渡されても、貰わないようにしないと。うん。
「まあ……そんなわけだから」
辺境伯様の声にハッと我に返ったら、いつの間にか唸っているネコの頭を、辺境伯様が笑顔で上から手で押さえつけていた。
「いだだだだっ⁉」
しかもネコの悲鳴と抗議は、まるっと無視している。
「ロシー……今はこんなケット・シーの姿だが、確かに人間に戻れば君を帰せる可能性が一番高くなるね。特に君にもしそれなりの魔力があったとしたら、コレの助手でもしながら帰る方法を探すって言う選択肢も出て来ると思うんだよ」
「助手⁉」
叫んだのは、もちろんネコ。
辺境伯様は、まったく取り合っていない。
「帰れるとなれば助力は惜しまないし、もちろんしばらく暮らしてみて、君が元いた世界よりこちらがいいとなったら、私の権限で住民登録くらいは出来る。そもそも、何時間待たされていようと、君の意思を確認せずにこちらに連れて来た方が悪いのだから、君が望むことを、基本的には拒否しないよ」
犯罪行為にさえならなければね、と、辺境伯様は最後に片目を閉じた。
「魔法……使えるんですか?」
魔力があるかも知れない、と言うからには魔法が使える可能性もあると言うことだろうか。
大きなリボンを頭に乗せて、箒に乗って空を飛びまわる姿をうっかり想像してしまう。
その瞬間だけは、二時間「誰も迎えに来なかった」と言う事実を忘れることが出来た。
「魔力があればね」
それを調べに行くんだよ――と辺境伯様は笑い、聞いてしまえば答えは一つだった。
「調べに行きたいです」
「うん。いい返事だね。では、そうしようか。……ソランド」
辺境伯様の声に「は。馬車の用意を致します」との声が部屋の隅から返ってきた。
食堂の扉が開いて、すぐにまた閉まる。
そうしてソランドさんが出ていったのを見届ける形で、辺境伯様が「ふむ……」と、口元に手をあてた。
「廃村寸前だった村で暮らしていた子供が保護された、ということにでもして……あとは魔力測定と登録のための名前……名前か……」
単語の欠片でも覚えはないのか、と聞かれたけれど、本当に欠片も思い出せないのだ。
正直にそう答えると、辺境伯様は困ったように悩みはじめた。
「髪……瞳……リュウの色とは言え、女の子となると……うん、じゃあとりあえず、リュリュにしようか。いいかい? ここでの君の名前は〝リュリュ〟だ」
「リュリュ」
「元の名前を少しでも思い出して、違和感を感じたなら自分で変えればいい。とりあえず今は、役所で魔力測定をするのに名無しってわけにはいかないから、リュリュだ。誰かに由来を聞かれたら、髪と瞳の色から付けられたと言えば、大抵は納得するから」
どうやら、リュウと言うのがこの国での黒っぽい色を指すらしい。
一瞬、中二病の単語が頭に浮かんだけれど、多分この国の人たちからすると、日本語っぽい名前の方が浮いてしまうんだろうから、ここは受け入れるしかないんだろう。
日本……日本語……あれ、なんで通じているんだろう。
測定をして貰わないと何とも言えないけれど、もしかしたら、その「魔力」と言うのが言葉にも関係してきているのかも知れない。
「じゃあ行こうか、リュリュ」
魔力があれば、魔法が使える。
魔法が使えれば、空が飛べる。
たくさんの魔力があれば、魔法で元の世界へ戻れる可能性が広がる。
「……行きます」
いつの間にか、付いて行くのが当然とばかりにネコが肩の上に飛び乗っていたけれど……師匠になるかも知れないと言っていたし、ここは何も言わないでおこうと思った。
どんな結果が出るんだろう――?
期待をしながら、差し出された辺境伯様の手に、自分の手をそっと乗せた。